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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 内医院から特別に滋養のつく煎じ薬も賜ったものの、一向に病状は回復しない。オクチョン自身、何かの病に取りつかれたのかと不安を覚え始めたその矢先、一転して朗報がもたらされた。
 病臥して十日め、
―畏れ多くも、張淑媛さまはご懐妊しておられます。
 診察後、医官が平伏して告げたのである。
 ?張淑媛懐妊?の報はただちに大殿で執務中の粛宗に届けられ、更にはその日の中には宮殿中にひろまった。
 微熱と吐き気のどちらの症状も妊娠初期のものと判り、医官が処方した薬のお陰で、下痢の方はすぐに落ちついた。
―あまりに下痢が続くと、妊娠初期は流産ということもございますゆえ。
 御医が告げた言葉に、粛宗は蒼くなった。いつもは滅多なことで動じない若い王の狼狽えぶりに、古参の老臣たちは瞠目した。御前会議では父どころか祖父のような熟練した朝廷の臣下たちを相手に堂々と渡り合う青年王である。
 やはり
―殿下の?泣き所?は張淑媛らしい。
 と、チャン・オクチョンへの変わらぬ熱愛ぶりは後宮どころか宮殿中で再認識されたのだった。
 何しろ先妻の仁敬王妃所生の第一王女が誕生後即日に亡くなって以来、七年ぶりの王室の慶事である。
―何としてでも、張淑媛の出産を無事済ませるように。
 内医院の医官たちに厳命を下し、オクチョン専任の御医を数名決めた。
 オクチョンの懐妊が判明したその日、スンは執務を済ませてから、飛ぶようにしてやってきた。
「七年ぶりに授かった子だ。どうか、これからは身体を労って健やかな子を産んでくれ」
 スンは安静を取って横になったオクチョンの手を押し頂き、自分の頬に押し当てた。
 その数日後、オクチョンは申尚宮を連れ、中宮殿に向かった。
 花見の宴が催されたのは半月ほど前になる。オクチョンはそこで初めて粛宗の継室仁顕王妃と親しく話をする機会を得た。これまでも何度か王妃と近しく話してみたいと思い、実際、後宮に住まう者同士、その機会は何度かあった。けれども、中宮殿の筆頭尚宮である楊尚宮が邪魔をしたのだ。
 現に昨日も楊尚宮がどこからともなく現れ、王妃をあたかも攫うように連れ去っていったのだ。楊尚宮は粛宗の前王妃仁敬王妃付きの尚宮でもあった。あの中年の尚宮がオクチョンを敵視しているのはもう十年以上も前からである。
 折角、王妃と親しく話す機会を奪われてしまい、オクチョンは落胆した。が、王妃は別れ際、オクチョンに中宮殿を訪ねて欲しいと言った。つまり、オクチョンは王妃から正式な招待を受けたことになる。
 これで中宮殿を訪ねる正当な理由ができた。もう、あの嫌な楊尚宮に邪魔立てされる心配もない。
 オクチョンはできるだけ他人との間に好悪の感情は持たないように務めてきた。特に後宮に入り特別尚宮になって以来、上に立つ者として部下を私情で区別してはいけないと自分を戒めてきたのだ。また、第一印象だけで人を決められるものではない。
 最初は無愛想だと思っていた人が親しくしてみれば、意外に明朗で付き合いやすかったというのはままある。しかし、あの楊尚宮に限り、オクチョンはどうしても好きになれなかった。楊尚宮のオクチョンを見つめるあのまなざしを思い起こすだけで、オクチョンは身体中ばかりか心がしんと冷えてゆくようだ。
 敵意と憎悪を剥きだしにしたあの眼は、正直恐ろしい。仁敬王妃がオクチョンを嫌っていたのは嫌になるほど知っている。スンの愛を奪った女として、前王妃はオクチョンを眼の敵にしていた。挨拶に出向いて、いきなり頭から汚水をかけられ糞尿まみれになったことさえある。
 仁敬王妃の影響で、楊尚宮がオクチョンを嫌っているとは十分考えられるが、何かそれだけではない不穏な得体の知れないものを、あの尚宮には感じてしまうのだ。言うなれば、個人的に嫌われている、或いは憎まれているということだ。
 では何故、我が身がそこまであの尚宮に憎まれるのか。オクチョンは理由が判らない。
 招待を受けてから、既に半月も経過してしまった。そのことを、オクチョンは申し訳なく思っている。妊娠初期の悪阻や微熱のため、ずっと伏せっていたのだ。
―もう良い加減に起きても大丈夫よ。懐妊は病気ではないのだから。
 幾らスンに訴えても、スンは首を縦に首を振らなかった。?王命?のため、オクチョンは大事を取って横になっていなければならなかった。
 だが、理知的で優しい王妃であれば、納得はしてくれるだろう。あの王妃とであれば、先の仁敬王妃とはまったく違った関係が築けそうな気がする。
 オクチョンは久しぶりに明るい気持ちになれた。もちろん、その一番の原因は、待望のスンの子どもを漸く身籠もれたからだ。
 歩きながらオクチョンは、そっと手のひらを腹部に当ててみる。御医の診立てによれば、出産予定は十月半ばだというという。であれば、この子は一月の終わり頃に授かったのだ。あの頃、スンが数日ぶりに訪れ、二人共に何か新鮮な気持ちで夜を過ごした。
 このところは若い頃のように烈しく交わるよりは、落ち着いた穏やかな営みが多かったというのに、あの夜は違った。二人とも何かに急かされるように烈しく求め合い。恥ずかしい話だけれど、獣のように何度も交わったのだ。
 以前、ミニョンが真顔でこんなことを囁いた。
―淑媛さま、女が身籠もるためには身も心も燃えし尽くさねばならぬそうにございますよ。
 オクチョンははっきり言って、男女の色事には疎い。これまで数え切れないほどスンと夜を過ごしていても、ミニョンの明け透けな言葉には赤面してしまう。
―それは、どういう意味?
 興味を引かれて問えば、ミニョンは笑いながら応えたものだ。
―殿方に抱かれて、身も心も燃やし尽くすほど夢中になるということですよ。
 一月終わりのあの夜、オクチョンはまさしくスンに抱かれて、身も心も燃やし尽くした。だからこそ、待ち望んだ子を授かることもできたというものだろう。
 オクチョンの懐妊が判明した時、ミニョンは眼を真っ赤にして歓んでくれた。
―私は何があっても子を授かれない運命ですゆえ、淑媛さまがお産み奉る御子は、畏れながら我が子と同じなのです。
 そう言って、嬉し涙を流したのだった。
 ミニョンの良人ホ内官は粛宗が信頼する側近ではあるが、去勢手術を受けた内官である。そのため、ミニョンとの間に子を儲けられない。ミニョンはいずれはホ内官の養父自身がしたように、自分たち夫婦も優秀な年少の内官見習いの子を養子として迎えることになるだろうと話している。
 スンは是が非でも男の子をと期待しているようだが、オクチョン自身はひそかに女の子であれば良いと考えていた。これから先、スンにはもっとたくさんの御子が生まれるだろう。仁顕王妃はまだ若い。これから先、もし王妃が王子を産めば、オクチョンの産んだ息子は第一王子であっても王位に就ける見込みはないのだ。
 オクチョン自身は我が子を玉座につけたいという野望は欠片ほどもないけれど、将来、王位を巡って我が息子が王妃の産んだ御子と相争う可能性もある。
―本人が望むと望まざるに拘わらず。