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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 では何故、大妃殿が新しい側室任命の報せを受け取るのが余計に遅れたのかといえば、もう一つ理由がある。張淑媛の許に王命伝達の使者として向かう後宮女官が全員、大王大妃の息の掛かった者たちばかりであったからだ。つまり、大王大妃側はすべてを自分たちで固め、大妃たちに気取られぬ中にすべてを終わらせてしまったということになる。
 更に大妃を激怒させ哀しませたのは、大妃を欺いた張本人が国王その人だったからだ。粛宗は幼い頃から、大妃自慢の息子であった。母の言いつけに背いたこともない利発な孝行息子を妖婦張淑媛が変えてしまったのだ。
 今回、大妃は完全に息子に裏切られた形となり、しかも、その可愛い一人息子は大妃が嫌悪する大王大妃と手を組んで張淑媛を後宮に呼び戻したのである。大妃はもう息子に二重に裏切られた気分であった。
 しかし、その怒りは息子粛宗ではなく、息子を誑かし別人のようにしてしまった張淑媛に向けられた。息子の我が儘の片棒を担いだ大王大妃も憎らしいが、大王大妃は?日頃から鬱屈を抱える年寄りの悪あがき?と笑い飛ばすこともできる。
 が、張淑媛だけは許せない。あれほど母想いの優しい息子をその色香で迷わせ、母に平然と刃向かう冷酷な男に変えたあの妖婦だけは。
 今や大妃の張淑媛に対する憎悪は以前の比ではなかった。
「栄華の夢に酔うのもせいぜい今の中よ。今に見ておれ、必ずや邪悪なる女狐を主上の側から、いいや、この世から消し去ってやる」
 不穏な呟きに楊尚宮が顔を上げれば、大妃は双眸に爛々と憎しみの炎を燃やしている。
 その鬼のような形相には、年齢を疑うようないつもの若々しさも美貌もなく、ひたすら恐ろしいばかりだ。
 楊尚宮は身を縮め、これ以上、女主人の怒りが矛先を変えて自分に向かないことを祈るばかりだった。
 
 あまたの人の思惑を孕んで、刻は流れる。大妃は確かに権力欲が強く鼻持ちならない策略家ではあるが、かといって大妃一人だけが悪者というわけでもない。
 長年、後宮で生きてきた楊尚宮はそう考えている。後宮という場所が、人を変えるのだ。水面では美しい花が乱れ咲くにも拘わらず、その下はどす黒く濁り淀んだ沼がひろがっている。誰もが見かけの華やかさ美しさに騙されている中に、足下を掬われ水底(みなそこ)に引きずり込まれる。
 しかも、一旦、脚を引っ張られたら落ちてゆく先は底なしの沼だ。それが伏魔殿と怖れられる後宮の正体であった。
 後宮は国王のために選りすぐりの美姫が集められ、美しき花たちが咲き?を競う場所、その美しき花という女君を求め、たった一匹の蝶は花園を訪れる。今日はこの花、明日はあの花と気まぐれに花に止まり蜜を吸う。
 蝶を招こうと花たちは懸命に美しく咲こうとし、時としてその必死さが人を変えることもある。例え、どのように清廉で高潔な志を持つひとでも、伏魔殿に潜む?魔力?には抗えない―。
 幾つの季節が巡り、花が咲き散っていったことか。
 そうして、オクチョンが後宮に再び迎えられて七度目の春を迎えようとしていたある日。
 その日、大妃殿で大がかりな花見の宴が催されることになった。大妃としてはオクチョンを呼びたくないのは山々ではあったろうが、流石にそう毎度毎度、無視するのも粛宗の手前、躊躇われたものか、今回は珍しく招待状が届いたのだった。
 季節は三月半ば、大妃殿の庭には早春の花がとりどりに乱れ咲いていた。派手好きな大妃の宮には似合わず、植わっているのは水仙やら梅、桃などの可憐で控えめな花たちである。
 大がかりといっても招待されたのは主立った王族の夫人ばかりで、顔ぶれはごく内輪の者たちばかりといったところだ。
 庭には天幕が張り巡らされ、最上席には国王夫妻、その傍らに宴の主催者である大妃が座った。最下位の淑媛とはいえ、現王の側室であれば、当然、国王の近くに席を設けるべきなのに、オクチョンは、王族の奥方たちの更にその下、最末端に近い。大妃の思惑を反映しての序列に相違なかった。
 それでも、オクチョンに不満はなかった。大妃殿とは普段から行き来はまったくない。後宮に戻ってから何度か大妃殿には挨拶に出向いたが、やはり大妃に逢っては貰えなかった。スンに相談しても
―必要ない。
 その一点張りなので、いつしか挨拶にも行かなくなってしまった。従って、この七年という月日、表面上は特に大妃殿と揉め事もなく無難な距離を保っているといったところだ。
 粛宗と大妃の母子仲も似たようなもので、粛宗が昔のように大妃殿を繁く訪ねることもなく、大妃が粛宗の許を訪ねることもなかった。ただ、粛宗が新たに娶った王妃に対しては、大妃はオクチョンに向けるのとは別人のような慈愛に満ちた笑顔を向ける。
 これは先の仁敬王后が存命であった頃から変わらない。
 新しい王妃ミン氏は、最初の仁敬王妃とは対照的な人物だ。オクチョンに言わせれば、雲泥の差と言っても良い。たくさんの両班家の妙齢の息女から選ばれるからには、いずれも美貌なのは変わらない。仁敬王妃が白芙蓉なら、新しい王妃は白梅のような女(ひと)であろう。
 清楚な美貌にはいささかも自らを奢ることなく、謙虚な人柄がよく現れ、宮殿内でオクチョンを見かけると少しはにかんだように微笑みかけるのがこの稀有な女性の人柄を何より物語っていた。
 王妃はオクチョンを見ても、まったく敵愾心を示さない。かといって積極的に話しかけてくることもなく、たまに何か話したそうなそぶりを見せても、王妃にぴったりと付いている楊尚宮が邪魔をする。
 仁敬王妃付きであった楊尚宮は一時、大妃殿に鞍替えしていたが、新しい王妃が入内するや再び中宮殿の筆頭尚宮に返り咲いた。
 王妃と側室、しかもオクチョンは最下位の淑媛にすぎない。しかし、オクチョンは新しい王妃と一度親しく話してみたいものだと考えていた。
 あの王妃であれば先の仁敬王妃とは異なり、何か違う関係を築けそうな気がするのだ。オクチョンにも、それがどういうものなのかは今のところ、まだ判らなかった。
 王妃は今、二十一歳、花の盛りの歳である。オクチョンは今年、二十九になった。もう女性として若い盛りとはいいがたい。スンは今も昔と変わらずオクチョンを大切にしてくれているし、?寵愛?が薄れているとは思えない。
 けれども、スンは新しく迎えたこの王妃も大切に扱い、気のせいか、王妃が嫁いでしばらくは殆ど中宮殿へ夜のお渡りもなかったというのに、ここ数年はオクチョンと王妃の許で夜を過ごす回数はほぼ同じになっている。
 もっとも、立后した時、王妃はまだ十四歳の少女に過ぎなかった。線も細く痩せぎすで、オクチョンは初めて見た時、この稚さで人妻となる王妃を気の毒に思ったほど幼かった。
 十四歳には見えず、せいせいが十歳を過ぎたばかりにしか見えなかった。それが月日が経つ中に、貧弱だった身体には適度に肉が付き、ふっくらと女性らしい丸みを帯びた。