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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 一度は纏ってみたいと少女時代から願い続けた花嫁衣装。その日、オクチョンはあこがれの花嫁となる衣装に身を包み、嘉礼に臨んだ。その傍らに立つのは王の正装を纏うスンである。
 新郎新婦が向かい合い挨拶を交わし、夫婦固めの杯を呑み終え、婚礼は無事に終わった。
「スン」
 オクチョンは花嫁衣装姿のまま、眼を潤ませた。
「こんなに幸せで良いのかしら」
「やっとオクチョンに花嫁衣装を着せてやれた。遅くなって、ごめんな」
 スンがつと手を伸ばす。オクチョンの眼に滲んだ涙を手のひらで拭う姿も微笑ましく、傍らに控える申尚宮とミニョンの表情も歓びに溢れている。
「これしきで幸せだと泣くほど歓ぶなら、毎日何度でも祝言を挙げたいくらいだ」
 スンの大真面目な言葉は、オクチョンの笑いを誘った。
「ありがとう。本当に私、何てお礼を言ったら良いか判らない。花嫁衣装を着られるなんて考えたこともなかったから」
 スンが笑った。
「相変わらず欲のないことだ。さりながら、オクチョン、これからはもっと欲張りになって良いんだぞ? そなたはもう承恩尚宮ではなく、れきとした側室であり、王族の一員になったんだ。そなたが望めば、およそ叶わぬことはないはずだ」
 オクチョンは、これには真顔で首を振った。
「私は、そんなつもりはないのよ、スン。こうして小さい頃からの夢だった花嫁さんにもなれた。他に望むことは何もないわ」
「俺はそなたのその無欲さを好ましいと思っているが、たまには妻としてねだり言をして欲しいのも、男として正直な気持ちだな」
「スンったら」
 オクチョンは紅くなりながらも、この幸せを噛みしめていた。
 ?妻?、何という素敵な響きの言葉だろう。今までも特別尚宮として妻の一人として認められてはいたけれど、正式な側室ではなかった。だが、これからは違う。スンの言うようにオクチョンは今や正式に位階を賜った側室として遇される。
 とうとう、愛する男の本当の意味で妻になれたのだ。しかも、これからはずっとスンの側にいられる。今、自分に与えられたこの幸せを大切にしたいと、この時、オクチョンは心から思った。
 だが。オクチョンが幸せのただ中にいるのとは反対に、憤懣やる方ない人もむろん存在した。
 粛宗とオクチョンの婚儀が行われたその日、大妃殿の大妃の居室では大妃その人が恐ろしく不機嫌で楊尚宮から事の次第を聞いていた。
「なるほど、それで主上があの女の涙をご丁寧に拭いてやったということか」
 大妃はギリッと歯を噛みしめた。
「嘆かわしいことだ。一国の王たる方がたかだか側室の涙を嬉々として拭いてやるとは」
 大妃が苛々と言えば、楊尚宮はしたり顔で言った。
「こたびの嘉礼も元々は張淑媛のたっての願いであったと聞き及びおりますれば」
「なに?」
 大妃の柳眉が跳ね上がった。楊尚宮が用心深く気難しい女主人の顔色を窺いながら言上する。
「つまりは、張淑媛が畏れ多くも国王殿下にねだったからこそ、嘉礼を実現の運びとなったと聞いておりますが」
「何と、そうであったか。私は女狐の色香に血迷った主上が考えついた茶番だとしか考えていなかったが」
 大妃は癇性に文机を指で叩いた。
「世も末ではないか、楊尚宮。本来なら嘉礼は国王のつがいとなるただ一人の女人、つまりは中殿との婚儀のみであるべきで、側妾風情と嘉礼を挙げるなぞ言語道断。しかも、それを主上ではなく側妾の方が王に願うとは何事だ! 後宮の女として不心得にも程度があるというものだ」
 大妃は机を指で叩きながら続ける。
「しかも、主上は秋にもその新しい中殿との婚姻を控えておるのだぞ。正式な妻より側妾が先に嘉礼を挙げるなど、聞いたこともないわ!」
 考えれば考えるほど腹が立つというのは、どうやらこのようなことをいうようである。―と、楊尚宮が考えた時、大妃の眼が光った。
 こういう表情をするときは、大抵良からぬ策略が閃いたときだと、既に大妃に仕えて半年余りの楊尚宮は知っている。
「楊尚宮。しかし、これで、あの忌々しい妖婦を主上のお側から追い払う口実ができたやもしれぬぞ」
「と、申しますと?」
 楊尚宮が問うと、大妃は喜色満面で応えた。
「側室ごときがねだって新中殿より先に嘉礼を挙げさせた。これは由々しきことではないか」
 つまりは、それを罪に問い、張淑媛を失脚させようという魂胆らしい。
 楊尚宮は内心、溜息をついた。策謀家としては恐ろしく頭の回る方ではあるが、今回はどうも張淑媛憎しのあまり頭に血が上り、冷静に物事が考えられなくなっているようだ。
 今までの大妃からすれば、あまりにもお粗末で幼稚な計略ではないか。
 とはいえ、そのままを大妃に言えば、楊尚宮はこの場で無礼打ちにされるだろう。だから、曖昧に言葉を濁した。
 まったく、この方にお仕えするのは神経をすり減らす一方だ。亡くなられた前の中殿さまとは流石にお血筋だけはある。前中殿も神経質で、ちょっとしたことで苛々とよくお付きの者たちに当たったものだ。
 もっとも、年若い中殿は大妃ほど気難しくはなかった。その点はまだしも救いがあったといえよう。
「畏れながら大妃さまに申し上げます。確かに仰せのごとく張淑媛のふるまいは眼に余りますが、我が国の歴史書を紐解いても、正式な王命によって任ぜられた側室であれば、国王さまと嘉礼を挙げた例は少なくはございません。ゆえに、こたびの件だけで張淑媛の罪を問うのは難しいと存じます」
 慇懃に述べ、楊尚宮は大妃の顔を怖々と見た。案の定、大妃は細く整えられた眉をきりきりとつり上げる。
「ええい、どこまでも忌々しい女狐め」
 大妃は文机の上にあった硯を放り投げた。咄嗟によけたため、硯は楊尚宮を素通りして、背後の扉に当たって落ちる。その弾みで、一部が砕け、無残な姿で硯は床に転がった。
 楊尚宮の背筋を冷や汗が流れる。
―国王さまにご寝所で泣きついたのは私ではなく、張淑媛でございますよ、大妃さま。
 幾ら張淑媛憎しといえども、そのとばっちりで怪我をさせられては堪ったものではない。
 楊尚宮は心で大妃に抗議してみる。だが、この大妃の逆鱗も考えてみれば、理解できないこともないのだ。
 大体、張淑媛を後宮に呼び戻すについて、大妃は完全に粛宗に出し抜かれた形だったのだ。
 すべては隠密裡に進められ、いきなり当日になって後宮の方にも通達があったという有様であった。もちろん、側室に位階を与えるのは内命婦のことゆえ、本来なら今、後宮の長たる大妃が一番に知るべき事柄である。それが今回は大妃を素通りして物事が進んだらしい。
 それはとりもなおさず、今回の側室任命に大妃よりも格上の後宮の女性、つまり大王大妃が関与していたからだ。王命は大妃ではなく、大王大妃に通達され、了承を得た。
 そして、その翌日には早くも張淑媛の許に遣いが遣わされ、王命伝達の儀式が行われているという迅速さだ。すべては横やりが入らないようにするためだとは判る。もちろん、その横やりを入れるのは、この大妃くらいのものだ。