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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 今一度、仕立て上がった龍袍を床にひろげて名残を惜しむように眺めている最中、ミニョンが顔を覗かせた。
「何度拝見しても、素晴らしい出来ですね」
 ミニョンが感嘆したように吐息を漏らす。確かに見事な出来映えだった。群青色の龍袍に浮き上がった勇壮な龍はさながら夜空を悠々と翔け、生きているかのように見える。
 ミニョンも側に来て、今にも布地から飛び出してゆきそうな龍を感じ入ったように眺めた。
 ふいにミニョンが泣き出した。
「どうしたの?」
 オクチョンが不思議そうに問えば、忠義者の女官はしゃくり上げながら応えた。
「あまりにも尚宮さまがお気の毒で、見ていられません。殿下は何という不実なお方でしょう。尚宮さまはこんなに一途に殿下をお慕いなさっているというのに、あまりに残酷すぎます」
 オクチョンは微笑んだ。
「良いのよ。殿下には殿下の立場があるのでしょうし、私なんかには到底うかがい知れぬ苦衷もあるのだと思うわ」
 それは嘘ではない。大王大妃が言っていたではないか。
―望むと望まざるに拘わらず。
 そう、王とは孤独なものなのだろう。王は人間であって人間ではない。自分の思うように生きたくても生きられない、私情より国のゆく末を優先させなければならない。
 たとえスンがオクチョンに逢いたくても、逢えない事情があるのかもしれない。今はまだ、そう思うことでわずかながらも明日へ希望を繋ごうとオクチョンは思っている。
 もしかしたら、一生このままかもしれない。スンとは逢えず、宮殿に戻れないかもしれなない。それでも良い。スンと出逢えて、短くても幸せな日々を過ごせただけで幸せだ。
 その想いは今も変わらない。
 この頃のオクチョンはもうスンを恨むことも、泣くこともなくなった。
 いつまでも未練がましく龍袍を眺めていても仕方ない。これは王の纏う正装だから。スンのために縫い上げたのだ。ここに後生大切に持っていても役には立たないから、せめてスンに着て欲しい。
 もし彼の心がオクチョンから離れているのだとしたら、彼には迷惑なだけかもしれないが、そのときはそのときだ。オクチョンが龍袍を畳もうと手を伸ばしたときだった。
 室の扉が外から勢いよく開いて、申尚宮がまろぶように入ってきた。
「尚宮さま」
 あまりに急ぎすぎて、申尚宮はしゃべりも出来ないようである。ミニョンが子どもっぽく頬を膨らませた。
 いつしか申尚宮とミニョンは、まるで本物の母娘のような気安い関係になっている。
「申尚宮さま、いつも私にはもう少し淑やかにしなさいとお小言を下さる割には、この慌て様はいかにも童みたいではありませんか」
 常に冷静沈着な申尚宮にしては、滑稽なほど狼狽えている。一体何事が起こったのかと、オクチョンはミニョンが運んできた小卓の上の湯飲みを申尚宮に手渡してやった。
 いつもなら主君のために用意された茶を呑むような人ではないのだが―。申尚宮は受け取るや、貪るように呑んだ。
 呆気に取られるオクチョンとミニョンを前に、申尚宮が感極まったように叫んだ。
「尚宮さま、宮殿より使者が参っております。尚宮さまを淑媛(スクウォン)に任じるとの王命が下ったそうです。また、殿下は合わせて、直ちに別邸を引き払い、後宮に戻るようにと」
 申尚宮の言葉が終わらない中に、側のミニョンがまた声を上げて泣き出した。
 申尚宮とミニョンはすぐにオクチョンの身支度を調えた。宮殿から使わされた使者は、粛宗から託された豪華な衣装一式も持参していた。
 色鮮やかな正装を纏い、美しく化粧したオクチョンが回廊に立った時、庭で待機していた使者がハッと息を呑んだ。
 この朗報をもたらす使者とした選ばれた官吏と女官は、それぞれが相応の地位にある者たちばかりである。特に長年、後宮の美姫を見てきた尚宮を瞠目させるほど、その日のオクチョンは神々しく美しかった。
 用意された敷物に端座したオクチョンの前に、官吏が佇む。お付きの申尚宮とミニョンが側に控え、拝礼を繰り返すオクチョンを両脇から支えた。
 官吏が王命の記された書状を読み上げる。
「女官チャン・オクチョンを今日付で従四品淑媛に任命する」
 頭を垂れ王命を聞きながら、オクチョンは泣いていた。この晴れの日に泣くまいと思いつつも、涙はとどまるところを知らない。
 スンは約束を守ってくれたのだ。
 この日、オクチョンが去年の秋から今の春までを過ごした別邸の庭先には白木蓮が盛りと咲き誇っていた。
 天人が楽の音を奏でながら天空を舞い、地上に播く蓮の花びらを散華という。今、王命を謹んで受けるオクチョンの傍らで、その散華にも似た花びらを持つ美しい花たちが控えめながらも誇らしげに凛として咲いていた。
 真白(ましろ)の穢れなき花の色は、去年の終わり、スンと共に過ごした翌朝に見た初雪を思い出させる。
 門前まで黙って歩いてきたのに、何を思ったか彼は突如として立ち止まって言ったのだ。
―そなたの許を訪れたその日に初雪が降るとは。
 そして、名残を惜しむように振り返り馬に乗って帰っていった。
 あの後ろ姿を忘れたことはない。最後まで物言いたげに見つめていた大好きな黒い瞳も。涙を宿していたあのときの表情も。
 王命の伝達が終わり、後宮から遣わされた尚宮が数人の女官を指図して、オクチョンの持ち物などを荷造りさせている間、申尚宮はその場に立ち会うべく側を離れ、ミニョンだけがオクチョンの側にいた。
「花が」
 オクチョンが呟くと、すかさずミニョンが言った。
「花がどうかされましたか?」
「花が咲いたのね」
 ミニョンがハッとした表情になった。
「真にございますね。春が、私どもの待ちに待った春が参りました。尚宮さま」
 その後で、ミニョンが微笑んだ。
「今日からは尚宮さまではなく淑媛さまとお呼びしなければなりませんね」
 嬉しげに言う声が弾んでいる。
 オクチョンは心の中で呼びかけた。
―あなたさまの仰せのとおり、春が来ました。私の長い冬も漸く終わりを告げるのでしょうか。
 その言葉は紛れもなく大王大妃に向けたものであった。恐らく、今日の歓びの日には名こそ出てはこねど、実現のために裏で力を尽くして下されたであろう高貴なるお方。
 とりあえず荷造りが終わったと聞き、オクチョンは迎えに寄越された女輿に乗り込み、宮殿に向かった。後宮を去るときは簡素な輿で裏門から出ていったのに、今度は比べものにならない立派な輿で堂々と正門から戻るのだ。
 輿を数人の屈強な男たちが担ぎ、その周囲を守るように女官や護衛の武官たちが付き従う。輿の側にはもちろん、オクチョンの忍従の時を支え続けた申尚宮とミニョンが歩いていた。二人の眼には共に光るものがあったのは言うまでもない。
 オクチョンが五カ月を過ごした別邸の庭先では、女主人の門出をことほぐかのように白いたおやかな花が春風に揺れて見送った。

 後宮に戻ったオクチョンには新たに殿舎が与えられた。粛宗はわざわざその殿舎前まで足を運び、やっと我が手に取り戻した寵姫を出迎えた。
 スンのひろげた両手に飛び込み、オクチョンは泣いた。
 その三日後、吉日をもって粛宗と今は張淑媛と呼ばれるようになったチャン・オクチョンとの華燭の儀が厳かに行われた。