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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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「昨夜ここに来るまではそのつもりだったが、もう良いよ」
「もう良いって?」
 半ば自棄のようにも聞こえ、オクチョンは不穏なものを感じてスンを見た。
 スンがオクチョンを安心させるかのように笑う。
「母上にバレたら、バレたでも構わない」
「そんな、私が困るわ。折角大王大妃さまが気を遣って下さっているのに」
 オクチョンが蒼くなるのに、スンは笑った。
「オクチョンが心配する必要はない。俺は何も母上と喧嘩をするつもりはない。されど、そろそろ母上の操り人形でいるのも止めるつもりだ」
「それは、どういう意味?」
 やはり、スンの言動はこれまでのものとは少し違うようだ。スンに眼顔で促され、オクチョンは鶏の蒸し物を箸でむしり、スンの持ったご飯に乗せた。
「新しい中殿を迎えるのは、お祖母さまの言われるように致し方ないことだ。中殿の席を空白にはできないからな。だが、その他のことは、これからは俺のしたいようにさせて貰う」
「―」
 言葉もないオクチョンを見て、スンは頷いた。
「待っていてくれ。そなたが過ごす冬が一日でも早く終わるように、俺も努力する。そのためにも気が進まないが、宮殿に戻らねばな」
 最後は苦笑混じりに言った。
 オクチョンは懇願するように言った。
「お願いよ、スン。大妃さまと喧嘩するのだけは止めてね。私なら、このままで良いの。あなたに逢えないのは淋しいけど、こうしてたまに逢いにきてくれるだけで我慢できる。大妃さまに逆らわないで」
 自分が原因で、大妃とスンの母子仲が決裂するようなことだけはあってはならない。
 オクチョンは心からそう願っていた。
 スンが手を伸ばし、オクチョンの黒髪を撫でた。
「そなたは相変わらずだな。?お人好し?のチャン・オクチョン」
 言葉とは裏腹に、この上なく優しい手つきに、オクチョンはまた涙が溢れそうになった。
 水入らずで食事を取った後は、いよいよ王の帰還となる。
 オクチョンは支度を調えたスンを門まで送っていった。夕べ降り続いた雪は今朝、見事なまでに積もっている。二人が庭を歩く度に、雪を踏みしめる音が静寂に響いた。
「そなたの許を訪ねた夜、初雪が降るとは」
 スンがふいに立ち止まった。門の手前に植えられた桜を見ている。十二月の今、桜には当然ながら花も葉もない。寒空に腕をひろげるように伸ばした枝に降り続いた雪が乗っているだけだ。
「オクチョン、たとえ俺は宮殿に戻っても、心はここに―そなたの側に置いてゆく。ゆえに、心をしっかりと持ち、良き知らせが来るのを待っていて欲しい」
「スン」
 オクチョンは涙ぐんでスンを見た。
―たとえ宮殿に戻っても、心はそなたの側に置いてゆく。
 ただひたすら待つだけの身には、どれだけ嬉しい言葉であることか。
 スンに引き寄せられ、オクチョンは彼の広い胸に顔を埋めた。
「できるものなら、そなたを共に宮殿に連れ帰るか、俺が何もかも放り出して、ここでそなたと共に暮らしたい」
「あなたは、この国の王でしょ。そんな我が儘を言っては駄目よ、殿下」
 オクチョンがわざと朗らかに言えば、スンも応じるように言った。
「怖い怖い、俺の奥さんはなかなかに厳しいな」
 今は?俺の奥さん?という言葉が何より嬉しい。
 門前には毛並みの良い駿馬が待っていた。その手綱を持っているのはホ内官である。駿馬に並んで、ホ内官自身の乗ってきた鹿毛も大人しく控えている。
「また来るよ」
 スンがオクチョンを見て、一瞬、眼を瞬いたのは涙を隠そうとしたからに違いない。
「宮殿まで気をつけて帰ってね」
「腕利きのホ内官がいるから、大丈夫だ」
 スンは明るく言い、ホ内官の引いた馬にひらりと飛び乗った。
 馬上からオクチョンをもう一度見、笑いかけて後は振り向かずに馬を駆けさせて去ってゆく。ホ内官もオクチョンに一礼して、スンの後を馬で追いかけた。
―行ってしまった。
 気を利かせた申尚宮とミニョンは、見送りはオクチョンだけにさせてくれた。
 オクチョンは茫然と積もった雪の上をまた歩いて自室まで戻った。
 今度はいつ逢えるのか。たまに逢いにきてくれたら良い、我慢できる。スンには言ったけれど、我慢できるはずもなかった。
 今、スンを見送ったばかりなのに、もう逢いたい、こんなにも彼を恋しいと思っている。
 オクチョンは自室に戻ると、床に突っ伏して泣いた。

  蝶と花の居場所

―また来るよ。
 スンはそう言い残して去った。しかし、現実にはその後、彼がオクチョンの住まう別邸を訪れることは二度となかった。
 その年が終わり、新しい年になっても事態は何ら変わらない。ただ虚しく日は流れゆき。いつしか長い都の冬も終わりに近づいていた。
 この頃では、オクチョンは諦めの境地に達しかけていた。年が明けたばかりの頃は、スンの無情に嘆き、その不実に憤り、見捨てられた自分の不運を情けなく思ったものだ。
 オクチョンの身も世もない嘆きように、申尚宮とミニョンはかける言葉にも困るようであった。ミニョンは王のあまりの仕打ちに対して、良人であるホ内官に何か訊ねたらしい。
 今ではホ内官は老齢の?爺や?こと大殿内官に代わり、常に粛宗の側近く控えるようになり、王の信頼も厚い。が、そのホ内官も妻の疑問には
―殿下には殿下のお考えがあるのだろう。
 と、曖昧な応えしか返さなかった。
 そんなある日、オクチョンは午前中、自室の前の庭でたき火をした。正確にいえば、不要になった手紙を焼いたのである。それらはすべて王宮にいるスンに宛てて書いた書状ばかりだ。
 だが、十数通に渡る文は、ただの一度も粛宗に届くことはなかった。オクチョン自身が出さなかったのだ。
 手紙には思いの丈を綴った。どんなに逢えなくて淋しいか、時にはスンを恨めしくさえ思う、とか。
 あまり誰かに読まれて体裁の良いものではない。最初の中はもちろん本当に出すもつもりで書いたのだが、数通目を書く頃にはスンに出すというよりは自分自身の気持ちを文字にすることで整理する意味合いを持つようになった。
 確かに、手紙を書くことで、オクチョン自身、随分と救われたように思う。どんなに親しく信頼できるミニョンにでさえ、やはり打ち明けられない心の想いはあるのだ。
 午後からは荷造りをした。引っ越しをするというわけではない。ひと月前についに完成した龍袍を王宮に送り届けるためである。
 今度こそ文を書こうと思い自室の文机の前に座ったものの、結局、今回は一文字も書けなかった。いざ本当に彼に手紙を書くとなると、あまりに伝えたいこと、彼への想いが溢れすぎて、かえって何も書けなくなってしまうのだ。
 けれど、よくよく考えれば、かえって文などない方が想いはきちんと伝わるかもしれないと思い直した。
―さよなら。
 オクチョンは言葉にならなかった想いを、心を込めて縫い上げた龍袍に託すつもりであった。
 年が改まったばかりには、粛宗と閔維重の息女の婚約が成立したと公表された。予め聞かされていたことでもあり、そこまで愕きはしなかった。それでも、心は揺れた。
 それからもオクチョンはスンからの手紙、あるいは彼自身の来訪を待ち続けた。待って待って、待ち疲れている中にいつしか心は哀しい諦めの境地へと向かっていったのだ。