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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 オクチョンは即座に否定した。
「いいえ、大王大妃さまは私が池に落ちたときも助けて下さいました」
 ノリゲ盗難事件の際は静観の立場を守っていた大王大妃だったが、オクチョンが池に故意に突き落とされたときは違った。流石に見かねたと見え、表立ってオクチョンを庇ってくれたのだ。王室の最長老である大王大妃が矢面に立ったことで、さしもの大妃も引き下がるを得なくなり、オクチョンは晴れて粛宗の想い人であると公的にも認められる立場になり得たのだ。
 オクチョンは心から言った。
「大王大妃さまには感謝の想いで一杯です。畏れ多いかもしれませんが、本当の祖母のような気がしてなりません」
 大王大妃は気を悪くするどころか、相好を崩す。その笑顔はあたかも祖母が本物の孫娘に向けるようなものに違いなかった。
「私もそなたが赤の他人とは思えぬ。不思議なことだな」
 大王大妃がはるかなまなざしになった。
「気の遠くなるほど長い年月を生きてきた。伏魔殿と呼ばれる後宮で女の生き地獄を見て体験し、仁祖さまの寵愛を一身に集めた趙貴人に何度殺されかけたことかしれぬ。それでも、私はここに、こうして生きている」
 大王大妃の視線はオクチョンに向けられているようで、その実、オクチョンを超えて遠い景色を見ているようだ。今、この高貴なる老婦人の心は一途に恋い慕ったという良人仁祖が生きていた四代前の王の御世に戻っているのかもしれなかった。
「オクチョンや、人の運命とはげに不思議なものだ。本来なら出逢うはずのなかった私とそなたがこうして出逢うた。私にとって、そなたは孫娘のようなものだ。そなたが主上の妻となり、本当の曾孫になってくれて嬉しいのだ」
 大王大妃はやわらかく微笑んだ。オクチョンはその笑顔の美しさに一瞬、言葉も忘れ見惚れた。年齢などとかいったものを超越した、深い諦観を得た人だけが持つ静かな微笑をそのときの大王大妃は浮かべていた。
 まさに、厳しい漢陽(ハニャン)の冬を乗り越えて開いた花のような風情があった。
「今一つ、そなたに伝えておかねばならぬことがある」
 言葉と共に微笑が消え、大王大妃の表情が引き締まった。先刻までとは別人のような緊張を孕んだ雰囲気に、オクチョンは眼を瞠った。
 大王大妃がスンの顔をチラリと見る。オクチョンはつられるように彼の方を見るも、スンはどうしてか、視線を合わせようとはしない。打って変わった気まずい雰囲気がその場を満たした。
 スンの様子が違うことは、オクチョンにはすぐに判った。今まで大切な話の最中にオクチョンから視線を逸らしたことなどなかったのに。オクチョンはかすかな違和感を憶え、胸の動悸が速くなった。
 オクチョンは大王大妃とスンを交互に見た。
「何なのですか?」
 大王大妃に問いかけ、スンに視線を向ける。
「殿下、教えて下さい。殿下は私に何を伝えようとなさっているのですか?」
 流石に大王大妃の前では二人きりのときのように話しかけるわけにはゆかない。
 スンが口を開こうして、黙り込んだ。大王大妃が小さな吐息をつく。その面には?やれやれ?といいたげな表情が浮かんでいた。
 オクチョンの違和感はますます膨らんだ。
 大王大妃が吐息混じりに言った。
「どうしても主上ご自身の口からは話せぬようゆえ、私が代わりに話そう。オクチョン、主上はこの度、新しい中殿を迎えることにあいなった」
「―!」
 オクチョンは息を呑んだ。スンが揺れる瞳でオクチョンを見た。
「済まない、オクチョン」
 大王大妃が静かな声で続けた。
「叶うことなら、そなたを正室の座に直してやりたいとは思うが、そなたはまだ正式な側室として認めておらぬ。また、たとえ側室であったとしても、下位の側室を理由もなくいきなり中殿に立てた先例もない。いかにしても、そなたを主上の正妻にすることはできぬのだ」
 オクチョンはこみ上げる涙をまたたきで散らした。
「いいえ、大王大妃さま。大王大妃さまのそのご諚をお聞きできただけで、私は嬉しうございます。私は隷民の出です。天地がひっくり返ろうと、そんな私が中殿さまになれるはずもないし、また、なってはいけないのです。私も自分の立場を理解しておりますゆえ、どうかお気遣いはなさらないで下さいませ」
 更に、スンに涙を堪えて微笑みかけた。
「おめでとうございます、殿下」
 オクチョンの冴え冴えと輝く瞳から、つうっと涙が落ちた。スンが胸をつかれたような表情になり、大王大妃に叫ぶように言った。
「やはり、朕は母上にあの縁談はなかったことにして欲しいと伝えます。これではオクチョンがあまりに不憫だ。正式な側室にしてやれぬ上に、この上またオクチョン不在の折に新しい王妃を迎えるなど」
 スンの言葉から、この縁談が大妃の肝いりであることも察せられる。憎いオクチョンを追い払い、後顧の憂いがなくなったところで早速、息子の新しい嫁探しを行ったというところか。
 噛みつくような勢いにも、大王大妃は年の功で狼狽えもしない。逆に落ち着き払ってスンをいなした。
「愚かなことを言われるものではありません。今、大妃に逆らって誰が得をするのですか? 得をするどころか、その煽りを受けるのはまたオクチョンですよ。オクチョンが陰で糸を引いていると大妃はまた痛くもない腹を勘繰ろうとするでしょう。主上、もう少し大人におなりあそばせ。そなたは王なのです、大妃の意向とは関係なく、近い中に新しい王妃を立てねばなりません。そなたが望むと望まざるに拘わらず、国王が独り身でいることはできない。国の母たる中殿の座を空けておくことはできないのです」
 かつて十五歳で父親よりも年上の王の二番目の王妃になった女性は、厳かに言った、
「お祖母さま」
 スンと眼線を合わせ、大王大妃が笑った。
「オクチョンを後宮に戻すためにも、今は大妃の意向に大人しう従われた方が賢明です」
 クッとスンが悔しげに顔を歪め、うなだれた。
「オクチョン、よくぞ聞き分けてくれたの。安堵して待つが良い。けして、そなたの悪いようにはせぬ。次にあいまみえるときはここではなく、王宮で会うのを愉しみにしているぞ」
 大王大妃が温かな笑みを浮かべた。オクチョンの目尻に浮かぶ涙をめざとく見つけ、大王大妃は人差し指で拭った。
「辛きときには心に花を持て」
「心に花を、でございますか?」
「そうだ、厳しい冬を耐え縫いて春咲く花を思い浮かべるのだ」
「春に咲く花」
 そういえば、と、オクチョンは今更ながらに思い出していた。二カ月前、出宮するときも大王大妃はスンを通じて同じ言葉を伝えてくれたのだ。
「後宮に生きる王の女たちは皆、おしなべて同じだ。中殿と呼ばれた私でさえ、仁祖さまの側室たちの存在には日々悩まされたものだ。そなたが国王殿下のお側にいたいと願う限り、その葛藤は避けて通れぬ道なのだ。そして国王はたとえ自らが望んだとしても、ただ一人の女に心を傾けることは許されぬ。何故なら、王が一人の女だけを寵愛すれば、後宮での女たちの争いが熾烈になり、引いては表の朝廷にまで余波が及ぶからだ。古来、王が寵姫に溺れた御世は国が乱れると相場が決まっておる。主上を真にお慕いしているならば、己れの立場をわきまえ、受け入れることも大切だと心得よ」