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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 オクチョン自身は今も心はスンのすぐ側にあると信じているけれど、果たしてスンの方はどうなのだろう。スンを信じてはいるが、やはり離れて暮らしていれば無性に不安になるときがある。
 オクチョンはもう一度、夜空を見上げる。今夜のように月の美しい夜は恋しい男を思い出さずにはいられない。殊に都の上を覆う紫紺の夜空は、あの男の瞳を思い出す。オクチョンの大好きな漆黒の深い瞳。
 溜息をつく度、白く細い息が夜陰に儚く立ち上り、いずこへともなく溶けてゆく。
 宮殿を追われるように出てから、季節はめぐり、秋から冬になった。スンの顔を見なくなってはや二つの月を数える。その間、彼からは何の連絡もない。せめて手紙一つくらい書いて欲しいと願うのは我が儘だろうか。
 オクチョンはチョゴリの紐から垂らしたノリゲを手にした。大好きな紅吊舟を象った紅玉のノリゲが清かな月光を浴びて煌めいている。
 スン、スン。
 心の中で愛しい男の名を呼ぶ。
 オクチョンは切ない溜息をつき、涙ぐんだ瞳で空を見上げた。
―神さま仏さま、せめて夢でも良いから、あの方に会わせて下さい。
 ややくすんだ黄色をした月がぼやけて見える。自分が泣いているのに、月も一緒に泣いているように思え、余計に泣けてきた。
 考えている中に、哀しみは増してゆく。屋敷内は物音一つせず、この世に自分一人だけ取り残されてしまったような気さえして、オクチョンは両手で顔を覆ってすすり泣いた。
 逢いたい、あの方に逢いたい。
 ひとしきり泣いた後、オクチョンは袖から手拭いを出し洟を啜った。その時、笑いを含んだ声が夜の静寂を破った。
「相変わらずの泣き虫だな」
 オクチョンは弾かれたように顔を上げた。
―もしかしたら、私はスン恋しさのあまり、気が狂ってしまったの?
 スンのことばかり考えるから、ついに幻聴が聞こえてきたのかと思ったのだけれど。
 ほどなく彼女の前に立ったのは、恋しくて夢でも良いから逢いたいと願った男だった。
「スン!」
 オクチョンはスンの胸に飛び込んだ。スンはひろげた両手でオクチョンを難なく抱き留め、相変わらず、からかうような口調で言う。
「元気にしていたかい、私の奥さん」
 ?私の奥さん?という言葉に、オクチョンは止まっていた涙がまた溢れ出した。
「スンはまだ私を奥さんだと思ってくれているの―」
 その言葉に、スンは聞き捨てならないというように眉をつり上げた。
「何を言っているんだ、オクチョン。そなたは未来永劫、俺の妻ではないか」
「だって、文の一つも届かないし、スンは私のことなんてもう忘れたのかと思って」
 折角来てくれた彼を責めてはいけない。そう思う傍ら、オクチョンからは迸るように言葉が溢れた。
「悪かった。俺も手紙くらいは書きたいと思ったんだ。さりながら、母上の手前、やはり慎重を期せざるを得なかった」
 書こうにも書けない状況にあったのだとは判る。オクチョンは涙ながらに頷いた。
「私の方こそ、ごめんなさい。スンだって苦しい立場にいるのに」
「いや、ずっと放っておいた俺に非がある。だが、俺だって、どれだけオクチョンに逢いたかったことか。いつだって、そなたに逢いたいと思っていたさ」
「私たち、同じことを考えていたのね」
 オクチョンは空を見上げた。
「いつも空を見て考えていたの。この空は、あなたがいる宮殿に続いているんだから、きっと、私が空を見ていれば、あなたも同じ空を見ているだろうって。離れていても、同じ空を見て心がすぐ側にあれば淋しくはないでしょ」
 無邪気に言ったオクチョンを、スンが抱きしめた。
「オクチョン。済まぬ、淋しい想いをさせてばかりで。いっそこのまま宮殿にそなたを連れて帰りたい」
 オクチョンはわざと明るい声で言った。
「私なら大丈夫よ。二ヶ月ぶりにスンの顔を見たから、元気になれたわ。これでまた二ヶ月は我慢できるから」
「そなたというヤツは」
 スンの方が眼を潤ませていた。しばらく静かな時間が恋人たちを包んでいた。それは、限りなく優しい時間だった。
 何を言うでもなく月を見ていたスンが思いついたように言った。
「今日はオクチョンに是非とも逢いたいという人を連れてきたんだ」
「まあ、誰なの?」
 オクチョンが眼を見開いたその時、外套をすっぽりと被った女人が暗闇から現れた。その人物は庭をゆっくりとこちらへ向かってくる。
 眼の前に立っても、外套を目深に被っているため、誰なのかは判らない。小柄な女性であるのは確かなようだ。
「オクチョン」
 女性が外套をサッと脱ぎ捨てた。オクチョンは思わず声を上げるところであった。あろうことか、スンが同道したのは荘烈(チヤンニヨル)大王大妃であったのだ。
「大王大妃さま」
 オクチョンがその場に跪くと、大王大妃は朗らかな笑みを浮かべた。
「久しいのう。息災にしておったか?」
「はい」
 オクチョンはまたも目頭が熱くなった。月はどんな素敵な魔法を今夜は見せてくれるのだろう。スンだけでなく大王大妃さまにまで逢えるなんて。
 大王大妃が肩を竦めた。
「久々の逢瀬を邪魔したくはなかったゆえ、大人しうに待っておったものの、この様子では一晩中待たされるのではと冷や汗ものであったぞ」
 いかにも大王大妃らしい物言いに、オクチョンとスンは顔を合わせた。
「このような夜分にお越し頂けるとは思いもしませんでした」
 オクチョンの言葉に、大王大妃は首を振った。
「いや、かえって夜陰に紛れての方が色々と好都合なのだ」
 大王大妃の視線に、スンが口を開いた。
「我々の動向は常に監視されていると思った方が良い。オクチョン、ゆえに俺もなかなか宮殿を抜け出せなかったのだ」
 スンは誰がとは言わなかったが、監視しているのが大妃であるのは明白だ。
 そこで一同は室に入った。粛宗と大王大妃の急な来訪を既に申尚宮は知っているらしく、頃合いを見計らったかのように茶菓を運んできた。
「そなたらも変わりはなかったか?」
 大王大妃は如才なく申尚宮にも親しく声をかけている。
「お陰さまにて、つつがなく過ごしておりました」
 申尚宮が伏し目がちに応えると、大王大妃は明るい声で続けた。
「これより後もオクチョンのことを頼んだぞ」
「我が生命に替えましても、尚宮さまをお守り致します」
 常々、オクチョンは自分のために生命を粗末にないで欲しいと、仕える申尚宮やミニョンに言っている。だが、申尚宮の応えに大王大妃はいたく満足したらしく、満面の笑顔で頷いていた。
 申尚宮が下がった後、大王大妃が上座に少し離れて下手にスン、スンと向かい合う形で更に下座にオクチョンが陣取った。
「さて積もる話に花を咲かせたいところではあるが、いかにせん時間がない。夜明け前までには私は宮殿に戻らねばならぬでの」
 大王大妃は鹿爪らしい顔で話を切り出した。話の中心はやはり、今後の対策だった。
 オクチョンをどのような形で宮中に戻すか? 専らの話題は、それに尽きた。
 大王大妃はしっかりとした口調で語った。
「あのときは力になってやれなんだが、今度は尽力しよう」
 ?あのとき?というのはオクチョンがまだ大王大妃殿の女官であった頃、盗みの嫌疑をかけられたことを差しているのだとはすぐに判った。