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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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「尚宮さまが占い師とお会いになったことを楊尚宮に密告したのもホン女官です」
 オクチョンは息を呑んだ。
「そこに話がいくわけね」
「そうなのです」
 申尚宮が悔しげに言った。
「恩知らずとは、まさにあの者をいうのでしょう。ホン女官はそれだけではなく、定期的に尚宮さまの動向をすべて楊尚宮に流していました」
 言葉もないオクチョンに、申尚宮は真剣な面持ちで話し続けた。
「私、面妖だとは思っていました。お優しい尚宮さまは他人を、ましてやご自分に仕える者たちを疑われるようなことはありませんでしたが、私自身は裏切り者が身近に潜んでいると確信していたのです。残念ながら、その予感が当たってしまいました」
「つまりは、ホン女官は口封じのために殺されたのかしら」
 オクチョンは震える声で言った。先の占い師に続いて、またしても自分と関わり合った者が死んだ。
 申尚宮は頷いた。
「恐らくは。後宮ではよくある話です。大方は自殺に見せかけて殺されたのでしょう」
「でも、どうして今頃になってホン女官の正体が露見した―というより、亡くなったことを知ったの?」
 申尚宮が思慮深げな瞳をわずかに細めた。
「昨日、夜陰に紛れて、さる者が訪ねて参りまして」
 その訪問者というのがホン女官と同室の者であった。
「その者が申すには、ホン女官とその者は中宮殿で働いていた当時、姉妹のように打ち解けて何でも話した仲であったそうです」
「それで、自分が密偵であることも、私の殿舎で見聞きしたことも喋ってしまったのね」
「そう、密偵としては失格どころか、使い物にさえなりません。楊尚宮も人選を誤ったということでしょうが」
 申尚宮は小さな息を吐き、小声で続けた。
「そして、その者本人は口が堅く、また話の内容が内容であるだけに、他に洩らしたことは一切ないとのことでした。しかしながら、最近、どうも周囲に人の気配を感じてならない、しかも、その気配が殺気のような気がすると訴えておりました。三日ほど前の夜更けには、就寝中に何者かに首を締められそうになったと。そのときは危ういところを大暴れして、賊は逃げていったそうです」
「ホン女官が亡くなった今、その女官はどこの部署で働いているの?」
 申尚宮が首をひねった。
「確か今は大妃殿にいると申していたと思います」
「中殿さまが亡くなられた後、楊尚宮も大妃殿に移ったはずよね。話が見えてきたような気がするわ」
「これはあくまでも私の推測の域を出ませんが、ホン女官が何かをその者に喋っている可能性があると見て、その者が生命を狙われているのでしょう」
「今度は、別の女官がまた生命を狙われそうになっている、と」
 オクチョンは呟き、表情を引き締めた。
「申尚宮、その娘はそのまま帰したの?」
「いえ、本人が言うには、このことを他言したからには、もう後宮には戻れぬと。ゆえに、どこかに身を隠すというので、路銀の足しにせよと幾ばくかの金子を渡しました」
 その若い女官は泣いていたという。
―チェシムが自害なんてするはずがありません。あの子は本当は臆病で、血を見るだけでも悲鳴を上げるような子だったんだもの。
 チェシムの実家は常民(サンミン)で、両親は貧しい行商人であったそうだ。大方は金を餌に楊尚宮に体よく利用されたにすぎない。
―このままじゃ、あまりにあの子が可哀想で見ていられなくて、ここに来ました。
 楊尚宮が眼の敵にして陥れようとした張尚宮に秘密を暴露することで、チェシムも少しは浮かばれるのではないかと考えたらしい。
 オクチョンはすかさず言った。
「このまでは、その子も危ないわ」
 物問いたげな視線を向ける申尚宮に、オクチョンは口早に告げた。
「何とかして、その娘の実家を調べて。どこかに行くといっても、両親ならゆく先を知っているはずよ。居所が判り次第、ここに連れてきて」
「ですが、尚宮さま、余計なことをなさらない方がよろしいのではありませんか」
 申尚宮の心配は当然ともいえた。その女官に生きていて貰っては困るゆえ、楊尚宮はひそかに抹殺しようとしているのだ。なのに、その娘をあくまで庇い立てすれば、オクチョンの立場はますます複雑かつ危険極まりないものとなる。最悪、楊尚宮の背後にいる大妃を敵に回すことになりかねない。
 案じ顔の申尚宮に、オクチョンはきっぱりと言った。
「私のせいでこれ以上、犠牲者を出したくないの。私の眼の届くところにいれば、少なくとも一人でいるより安全でしょう。今、ここは人手が足りないから、働き手がいてくれれば、あなたもミニョンも助かるでしょうし。とにかく一刻も早く連れてきてちょうだい」
 オクチョンは膝前で組んだ手が白くなるほど力を込めた。
 もう二度と、誰も死なせはしない、殺させるものか。
 他人の生命を奪って平然としているヤツらの思うようにはさせない。それがたとえ楊尚宮だけでなく引いては大妃への挑戦になるのだとしても、人ひとりの生命が失われようとするのをオクチョンは見過ごしにはできない。
 オクチョンの希望は申尚宮からミニョン、更にミニョンの良人のホ内官に伝えられ、ホ内官は内侍府の監察部にいたことから、監察部の人材を内々に使って直にその女官の居所は知れた。
 彼女はホ内官に付き添われてオクチョンの暮らす別邸に連れてこられ、無事保護された。
  
 申尚宮から意外な報告を受けた後、オクチョンは一人、自室の扉を開けて回廊へと出た。
 室の周囲をぐるりと囲むように廊下が続いている。その回廊は吹き抜けで、各建物と繋がっている仕組みである。
 扉前の廊下に佇み空を仰げば、紫紺の空には丸い月が浮かんでいる。
 そういえば、と、オクチョンは懐かしい記憶を呼び覚まされた。スンと二度目に下町で出逢った時、二人で咲き誇る垂れ桜を眺めた。
 あの時、二人の頭上に輝いていた月も、今夜の月のように丸かった。あれからもう四年も経つなんて、信じられない。オクチョンは溜息をつく。
 初めて愛した男は、この朝鮮国の王だった。そのことで、オクチョン自身の運命も大きく音を立てて流れを変えた。時々、オクチョンは夢想してみることがあった。
 もし、スンが国王などではなく、市井に生きる名もない庶民であったら。自分たちの関係も今よりは複雑ではなく、権力を守るために人を殺したり殺されたりする伏魔殿で生きることもなかったろう。
 現実を変えられはしない。だから、幾ら夢見ても、それは所詮夢にすぎないのも判っている。それでも、彼女は考えずにはいられなかった。
 あの夜も蒼褪めた月が煌々と地上のあまねくものを照らし出し、夜桜が艶(つや)やかに咲き誇っていた。恋した男と二人きりで美しい桜を眺めるひとときは夢のようなものだった。
 思えば、あの夜から自分は随分と遠くまで来てしまった。
―私の居る場所は、今もあの方のすぐ側なのだろうか。
 それは何も距離的な関係だけではない。たとえ宮殿と別邸と離れていても、心が通じ合っていれば信頼し合っていれば、心の距離は誰よりも近いのだといえる。逆に同じ宮殿内に暮らしていたとしても、互いの心が離れてしまっていたとしたら、それはすぐ側にいるとはいえない。