炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻
ここで、オクチョンは比較的心静かな時間を過ごせた。屋敷はさほどの広さはないが、長らく人が住まなかった割には荒れてもおらず、広い庭には四季の花々が植えられている。無人とはいえ、管理する者は住んでおり、日々屋敷はきちんと管理されていた。
だからこそ、オクチョンがすぐに暮らすことができたのだ。建物はこじんまりしているけれど庭はかなり立派で、オクチョンはよく気散じに庭を歩いてみた。
秋たけなわの今の時季、庭には石蕗(つわぶき)が群れ咲いている。色とりどりの菊も眼を愉しませてくれる。菊は牡丹のような華やかさはないが、清楚な佇まいをオクチョンは好んだ。
申尚宮に勧められ、刺繍も再開した。スンのための龍袍は実のところ、まだ完成はしてないので、退宮のときの荷物にちゃんと入れてきた。もう少し気持ちが落ち着いたら、続きの刺繍に取りかかろうと考えている。
オクチョンは開いた画帳に筆で熱心に庭の風景を写し取った。色鮮やかに群れ咲く菊や、温かな陽の色を思わせる石蕗の色。下書きを終えた次は、顔彩で色を付ける。刺繍が好きなオクチョンは、絵を描くのも得意だ。
夜は昼間に描いた花の絵を見ながら、刺繍に精を出した。小さな枠にはめ込んだ白布にまず輪郭となる部分から挿し始め、次に色をつける要領で刺繍してゆく。
好きなことに夢中になっていれば、スンと逢えない淋しさも忘れられた。花の刺繍が出来上がる頃には、漸く龍袍の続きを再開する気持ちのゆとりも出てきた。
自室の床に群青の衣服をひろげ、昼夜も忘れるほどの打ち込み様で龍の刺繍の完成を目指した。
そんなある日、夕餉を食べながら、オクチョンは申尚宮から意外なことを告げられた。
それは、オクチョンの殿舎で働いていたさる女官が亡くなったという話であった。
オクチョンが後宮から去った今、殿舎はもぬけの殻になっている。もちろん、毎日、掃除などは行われ殿舎の管理そのものは続けられるものの、無人と化しているはずだ。
「ホン女官なる者を憶えておいでですか?」
いきなり問われ、オクチョンは眼をまたたかせた。
「ホン氏を名乗る娘は確か二人いたわね。一人はホン・スジン。もう一人はホン・チェシムではなかったかしら」
「流石は尚宮さま。よく憶えておいでですね」
申尚宮は微笑んだ。オクチョンもつられるように笑う。
「仕えてくれる者の名前くらいはせめて憶えておかなければね。それにしても申尚宮、私はもう後宮の女ではないし、その尚宮さまという呼び方は止めて欲しいと頼んでいるのに」
オクチョンの言葉に、申尚宮は笑顔のまま応える。
「お言葉ですが、尚宮さまの役職も位階もまだ、そのままになっておりますれば、このようにお呼びしても支障はないかと存じますが」
確かにそのとおりだ。粛宗はオクチョンを後宮から表向き?追放?したものの、その位階も役職も保留という形にしていた。そのことについて大妃はやはり抗議したらしいが、粛宗は取り合おうとしなかったらしい。
「それに、私が尚宮さまとお呼びしていけないのなら、尚宮さまも私を役職名で呼んで下さるのもどうかと」
逆に言い返され、オクチョンは眉を下げた。
「申尚宮って、後宮を出てから少し理屈っぽくなった?」
「まあ、私のこの性格は百年昔から変わっておりませんですよ」
申尚宮が言い、主従二人はしばらく笑い合った。
後宮を出たばかりの頃は、いつも淋しくて孤独で泣くことも多かった。でも、気心の知れた申尚宮とミニョンが側についてくれるお陰で、何とかここまで落ち着けたのだ。
二人にはどれほどお礼を言っても足りない。
オクチョンは首を傾げつつ言った。
「ところで、申尚宮。何故、ホン女官の話を持ち出したの?」
実は、と、申尚宮がにじり寄った。
「私がこれからお話しするのはホン・チェシムの方ですが、彼(か)の者が亡くなったそうです」
「まあ、どうしてそんなことに?」
オクチョンの記憶では、ホン・チェシムという女官は大人しく目立たない娘だったはずだ。歳はオクチョンより三つ下の十八歳、他の大勢の女官と同じように幼くして見習いとして入宮したたたき上げの女官だ。
取り立てて言うところもなく、要するに可もなく不可もなくといった平凡な娘であったように思う。
「まだ若いのに、可哀想に」
オクチョンが呟くと、申尚宮が更に声を低めた。
「実はホン・チェシムは元々中宮殿にいた女官なのです」
「そうだったの。私は知らなかったけど」
申尚宮が考え込むような表情で続けた。
「あれは尚宮さまが殿舎を賜られて二年目くらいでしたか、突如として中宮殿の方から一人回そうという話を頂きまして。私の方も特に断る理由もなく、受け入れました」
通常、雇い入れる女官の身元は厳しく詮議するが、中宮殿にいた女官であれば氏素性は証明されているようなものだ。ゆえに、詮議もしなかったと、申尚宮は語った。
オクチョンは頷いた。
「逆に中殿さまからのお申し出を無下に断れば失礼だものね」
「いえ、ホン女官は中殿さまからではなく、中殿さまお付きの楊尚宮からの推薦で参りました」
「だとしても、中殿さま付きの筆頭尚宮の言葉は中殿さまのお言葉と同じようなものよ」
「さようですね」
申尚宮は神妙な顔で頷いている。オクチョンは何故、申尚宮がホン女官の話に拘るのか解せない。が、かつて自分の殿舎で働いていた女官が若くして不幸にも亡くなったという話には心痛んだ。
年若い女官の身に一体、何が起こったのだろうか。想いに沈んでいるオクチョンの耳を、申尚宮の声が打った。
「ホン女官は自害したようです」
オクチョンは眼を見開いた。
「自害? どうして、そんなことをしたのかしら」
若い娘のことだから、真っ先に考えられるのは恋愛沙汰だ。女官は建前は?王の女?となるから、恋愛は許されない。相手はよくあるように内官か、それとも若い官吏なのか。
自分がまだ後宮にいたならば、打ち明けてくれたら必ず相談に乗ってやったものを。そこまでオクチョンが考えた時、申尚宮が発した言葉はあまりにも意外すぎた。
「ここだけの話ですが」
申尚宮はいっそう声を低めた。
「ホン女官はどうやら楊尚宮の密偵であったようなのです」
「密―偵」
言葉の意味は判るが、俄には信じられないことだった。
「何のために密偵なんかを送り込む必要があったというの」
申尚宮は当然だと言わんばかりだ。
「尚宮さまは違うかもしれませんが、あちらは尚宮さまに対して敵愾心を燃やしておいででしたゆえ」
「馬鹿馬鹿しい。向こうは言ってみれば正妻で、私は殿下のお情けを受けていても正式な側室にもなれなかったのに?」
「それほど中殿さまは尚宮さまを手強い相手だと思われていたのでしょう」
オクチョンはいつか大妃が憎々しげに放った科白を思い出していた。
亡き王妃がオクチョンのせいで気鬱の病になったと確か大妃は言っていた―。だとしたら、中宮殿に仕える者たちが自分を王妃の敵だと見なしていたのも理解はできる。
「だから、楊尚宮は密偵としてホン女官を私のところに送り込んだというわけね」
「そのとおりです。ですが、話はここからなのです」
申尚宮は溜息混じりだった。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻 作家名:東 めぐみ