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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 と悪夢にうなされる日々もあったという。それでも早死にすることなく、何代もの王の御世を生き抜き今に至る。御子がなく淋しい身の上ではあるが、王室の長老として穏やかな老後を得たのだ。
 そんな彼女の人柄を血の繋がらぬ曾孫粛宗は慕い、彼女の暮らしぶりに何くれとなく気を配って孝養を尽くしている。
―大王大妃さま、あなたはご自身の生涯を顧みられて、私にそのような言葉を下さったのですね。
 オクチョンは眼を瞑った。今、オクチョンにとって季節は冬。大王大妃はスンを通じてそう教えたのだ。長い冬は孤独で厳しい。それでも終わらぬ冬はなく、いずれ光溢れる季節がめぐり、花は咲く。
 明けない夜はなく、春が巡らぬ季節もない。
 オクチョンは眼を開いた。
「判った」
 オクチョンは存外にしっかりとした口調で応えた。
 極めて異例ではあるが、粛宗はそのままオクチョンの許にとどまることになった。少し早めの夕餉が国王のために用意され、二人は向かい合って和やかに夕食を取り、その後、オクチョンは王と過ごす夜のために湯浴みに向かった。
 数日ぶりの営みは、いつもと比べると穏やかなものになった。スンは宝物を扱うようにオクチョンをいとおしみ、オクチョンは控えめにそれに応えた。
 翌朝、スンはまだ夜明け前にオクチョンの殿舎を出た。大殿から届けられた龍袍や冠をオクチョン自らが手伝い着せ付ける。二人で過ごしたいつもの翌朝と何も変わらない静かな朝だ。
 けれど、二人とも万が一には、これが最後の朝になるやしもれぬと知っている。
 だからこそ、取り乱さず泣いたりすまいとオクチョンは決めていた。何事もなかったように、また明日逢えると思えるくらい自然に別れよう。
 それに、オクチョンは悟ったのだ。昨日、ここに来たときの彼の顔は苦悩に満ちていた。後宮を出るようにと告げたその瞬間、宣告されるオクチョンより宣告するスンの方が苦しそうだった。
 あんな哀しそうな彼を見ていたら、到底ここにとどまれない。
 苦しげな声、表情、すべてが彼の深い懊悩を物語っていた。
 彼にはいつも心安らかでいて欲しい。
 自分の存在が、後宮(ここ)にいることがスンを苦しめているというなら、もうとどまってはいけないのだ。
 龍袍を着せつけ、オクチョンが前に回って帯を整える間、スンはずっと黙り込んでいた。居室を出て控えの間を通ると、待機していた女官たちがさっと扉を両側から開ける。
 別れ際、ふいにきつく抱きしめられた。
「いやだ。手放したくない、離れたくない」
 スンがこの期に及んで駄々っ子のように言う。彼は腕に閉じ込めたオクチョンの髪に自分の頬を押し当て呟いた。
「離れたら、二度と逢えないかもしれない」
 オクチョンは無理にスンから自分の身体を引き離した。それは随分と覚悟と勇気の要ることではあったが。
 彼女は背伸びをしてスンを見上げた。
 小柄な彼女と大柄なスンでは、いつも向かい合うとこんな風に少し背伸びしなければならなかった。
 でも、オクチョンはこの距離感が気に入っていた。少しだけ背伸びして見上げる大好きな男の顔。今度はいつ逢えるのか。彼が言うように、もと二度と逢えないかもしれない。彼は国王だから、オクチョンが後宮を出たら逢う機会は実のところ、ないのだ。
 それでも、オクチョンは微笑んだ。スンを哀しませないために、不器用な笑顔が少しで上手く笑えているように見えるのを祈りながら。
「もう、決めたことよ」
 刹那、オクチョンの面に浮かび上がった微笑に、スンは息を呑んだ。
 穏やかな微笑は、彼に郊外の寺で見た観音菩薩を彷彿とさせた。優しさと慈愛に満ちた、見る者を癒し安らがせるような穏やかな笑みだ。そんな表情をオクチョンにさせたのは他ならぬスンへの深い愛情だった。
「また、いつでも逢えるわ」
 事はそう容易くはないのは判っていたけれど、また泣きそうに綺麗な顔を歪めているスンに、到底別れの言葉など告げられなかった。
 こうして、チャン・オクチョンは後宮を去った。オクチョンの女輿がひっそりと宮殿の裏門から出ていくのを粛宗は物陰から見送った。
 叶うことなら、全力で走っていって、輿を止めさせたい。思い切り腕に抱きしめて
―行くな、そなたは俺の側にいろ。
 と、言いたかった。
 けれど、それはできない相談だ。オクチョンがこのまま後宮にとどまり続ければ、母大妃は必ずオクチョンの息の根を止めようとするに違いない。
 オクチョンの生命と引き替えにできるものなどありはしない。大王大妃の言うように、今は忍従の時だ。オクチョンと自分を取り巻く状況は今、まさに真冬のただ中でしかない。だが、いずれ長く厳しい冬は終わりを告げ、温かな春が来る。
 チャン・オクチョンという花は再び王の寵愛を得て、後宮という花園で美しく咲くだろう。歴代王の美姫を集めて名高かった花園にもかつて存在しなかったほど美しく。
 オクチョンこそが粛宗にとっては光であり、花であった。彼の後宮に咲く、一輪の名花。そんな日が必ず来る。いや、来させてみせる。そのために今は耐えるしかない。
 大王大妃の言葉を胸に抱きしめ、涙を堪えるのは何もオクチョンだけではなかったのである。一方、スンがひそかに見ていることも知らず、オクチョンもまた王宮から次第に離れてゆく輿の中でひっそりと涙を流していた。
 正門から出てゆくのは許されず、裏門から逃げるように出るしかなかった。オクチョンはきらびやかなチマチョゴリを脱いで、簡素なものに着替えていた。スンから賜ったたくさんの宝玉も自室にすべて置いていった。
 ただ一つだけ、まだ彼を王だと知らなかった頃に彼から贈られた紅玉(ルビー)のノリゲだけは身につけている。
 これは彼との出逢いの記念になる大切な品だ。だから、何があっても手放すつもりはない。
 オクチョンの背後から申尚宮とミニョンが付いてくる。二人とも女官のお仕着せから平服に着替えている。これより後も二人はオクチョンの側にいて仕えてくれることになっている。
 今は二人の存在がどれだけ心強いか知れなかった。
 オクチョンは門前まで来ると、踵を返し大殿の方角に向かった。両手を組んで眼の前に掲げ、一旦座って深々と頭を下げる。貴人に対する正式な拝礼である。もちろん、今は大殿にいるであろう粛宗に向かって捧げた拝礼であった。
 現実として粛宗は大殿ではなく、拝礼を繰り返すオクチョンをすぐ近くの物陰から見守っていたのだけれど―。拝礼するオクチョンを見つめる粛宗の眼もまた涙に濡れていた。
―さよなら、スン。
 輿の中、オクチョンはスンから贈られた紅吊舟のノリゲを握りしめ頬に押し当てて声を殺して泣いた。 
  
 オクチョンが身を寄せたのは、大王大妃が用意した別邸であった。ただ、これは元々、大王大妃所有であったものをさる王族に譲るという形を取り、別人の所有という体を装った。粛宗と大王大妃が相談した結果、この件にはあくまでも大王大妃は表立って関与しない方が良いという結論に達したのである。