炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻
その提案というのが何と張尚宮後宮追放であった。
スンは吐息混じりに言った。
「そなたを後宮から出すことで、そなた自身にかけられた中殿呪詛の容疑をなかったことにする。それが母上からの交換条件らしい」
オクチョンは唇を噛みしめた。あまりに強く噛んだので、鉄錆びた味が口中にひろがる。
「スン、私は誓って中殿さまを呪詛などしていない。なのに、どうして、そんなことをスンまでが言うの」
スンが幾度も頷いた。
「判っている。心優しいそなたが身重の中殿を呪えるはずがない。だがな、オクチョン。一度広まってしまった噂を何もなかったように消すのは不可能だ」
「だから、あなたは私に逃げろというの? やりもしない、犯してもいない罪を認めて、尻尾を巻いて逃げろと」
オクチョンは拳を握りしめた。
「私はいや。天に誓って私は中殿さまを呪詛なんてしない。だから、逃げも隠れもしたくないわ」
「オクチョン!」
スンがいつになく大声を出し、オクチョンはピクリと身を震わせた。
「済まぬ、そなたを怖がらせるつもりはなかつた。さりながら、聞き分けてくれぬか。俺はそなたを失いたくない。このまま手を打たねば、そなたは後宮の規律によって再び裁かれることになる。後宮には後宮の掟があることはそなたも存じておろう。そうなった時、そなたを裁くのは誰だ? 中殿亡き今、内命婦の頂点に立つのは母上だぞ。そなたの罪は母上によって裁かれる。そうなれば、王たる俺だとて最早、そなたを救えない」
オクチョンは悟った。スンは言っているのだ。今は名より実を取れ、卑怯者になっても良いから、とにかく生きろ、と。
「俺の口からこんなことを言いたくはないが、母上は間違いなくそなたを断罪に処すだろう。そうなったら、俺はどうなる? 愛するそなたが実の母の手にかかって殺されるのをみすみす指をくわえて見ていろと言うのか? 何より、そなたを失って、どうやってこれからの人生を生きろと?」
スンの眼に涙が光っている。
オクチョンは虚ろな声で問うた。
「一度起きてしまった事件をなかったことにはできないと、あなたは言ったわね。私が出ていっても、その理屈は同じではないの? それとも、あれは冤罪だったとでも取り繕うつもり?」
我ながら自分のものではないほど冷たい声になったが、この場合、致し方ない。
いや、と、スンは首を振った。
「事件そのものをなかったことにすると仰せだ」
「そんな―」
オクチョンはスンを見た。
「事件をなかったことにはできないと言ったばかりなのに」
はたと思い至り、オクチョンは口を噤んだ。つまりは大妃という女性は、それだけの強大な権力を持っているということなのだ。
脳裏で義禁府の取り調べ官が言っていた言葉がこだまする。
―我々は上役からの命令を忠実に遂行するだけです。上が言えば、白も黒になるのです。
今回の件は、まさにその好例ではないか。オクチョンがいかほど呪詛していないと訴えようが、大妃が諾と言えば、オクチョンの罪は確定する。裏腹に、大妃があの事件そのものをなかったことにすると宣言すれば、どれだけ多くの人が知っていようが、事件は?起こらなかったこと?として処理されるのだ。
スンが小さな息をついた。
「昨夜、お祖母さまの許へも窺った」
予期せぬところで大王大妃の名を聞いて、オクチョンはスンを見た。スンが頷いた。
「俺だけでは、どうにも一人で判断しかねたのでな、お祖母さまのご意見も是非お伺いしてみたかった。お祖母さまは母上と違い、そなたを孫のように可愛がっておいでだ。きっとオクチョンのために良い知恵を授けて下されると思ったのだ」
「大王大妃さまは何と?」
オクチョンはスンの返答を固唾を呑んで待った。
「お祖母さまも今は忍従の時だとおっしゃっていたよ」
「忍従の時」
スンが何かを思い出すような眼で言った。
「ああ」
訪れた粛宗に大王大妃は、はっきりと告げた。
―大妃がオクチョンの生命を一気に奪わぬには理由があるのでしょう
その言葉に、粛宗は眼を見開いた。
―それは何故ですか、お祖母さま。
―知れたことよ、息子のそなたの無用な恨みを買いたくないからです。
大王大妃は事もなげに言った。
―そなたがいまだオクチョンを熱愛しているのを大妃は嫌というほど知っているおりますからね。今ここでオクチョンを殺せば、そなたとの間には金輪際超えることのできぬ深い溝ができるは必定。ゆえに、敢えて大妃はオクチョンを生かしておく道を選んだのですよ、主上。
その後で、大王大妃はほろ苦く微笑したものだ。
―まっ、本音を言えば、大妃としてはオクチョンをこの機会に一挙にたたきつぶしておきたい心境ではあろうがな。
言葉もない粛宗に対し、大王大妃は穏やかな声音で言った。
―主上には酷な話であったやもしれぬが、事実はそういうことです。つまりは、そなたの存在、オクチョンへの気持ちがオクチョンを守る最高の楯となる。そのことをお忘れなさいませんように。逆を申せば、そなたの心がオクチョンから離れ寵愛を失うようなことになれば、あの者は危うくなります。
大王大妃の眼(まなこ)は優しげに細められていたものの、けして笑ってはおらず、むしろ見たことがないほど冷めていたともいえる。粛宗は、あの後も大王大妃の言葉の意味を繰り返し自問自答してみた。
―俺の心がオクチョンから離れる?
そんなことがあり得るのかと笑い飛ばしたくなるような話だ。けれど、何の意味もなく、あんなことを言うような大王大妃ではない。スンは大王大妃の眼を見て、しっかりと頷いたのだ。
―お祖母さまのお言葉、胸に刻みます。
―オクチョンは幸薄く育った可哀想な娘だ。どうか、あの子を頼みますぞ、主上。何があってもオクチョンを信じ、味方になってやって下され。
まるで実の孫娘のゆく末を頼むような口ぶりであった。
オクチョンは昨夜の出来事を思い出しているらしいスンを静かに見つめていた。
「今は忍従の時と大王大妃さまは、おっしゃったのね」
オクチョンの言葉がスンを物想いから現実に引き戻したようである。
「そういえば、お祖母さまが仰せであった。オクチョンに伝えて欲しい言葉があると」
「大王大妃さまは何とおっしゃったの?」
スンはまた記憶をたぐり寄せているようである。考え込みつつ応える。
「辛いときは春に咲く花を思い出せとおっしゃっていたな」
「春に咲く花を」
「うん」
―春咲く花は、長い冬を耐え抜いて春に咲く。そんな花のように、ひたすら時を待て。
大王大妃は最後に粛宗にその言葉をオクチョンに伝えて欲しいと言ったのである。
ああ、大王大妃さま。
オクチョンの眼から大粒の涙が溢れた。
いつだったか大王大妃に仕えるコン尚宮が言っていた。
―我らが大王大妃さまは長い冬に耐えて咲いた春の花のような方だ。
大王大妃はかつて良人である仁祖に見向きもされず、あまつさえ後宮でははるかに年上の寵愛厚い側室たちに蔑ろにされた。孤立するばかりか、王妃の座を狙った側室に暗殺されかけたことも何度もあると聞いた。
一時は
―趙貴人に殺される、殺される。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻 作家名:東 めぐみ