炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻
月の美しい夜、ミニョンがホ内官と逢い引きしていることまで、粛宗は知っている。だとすれば、ミニョンとホ内官の話題にも逆に自分とオクチョンが登場しているとも考えられる。国王を話のネタに笑い転げている恋人たちの姿をあまり想像したくはない。
粛宗は小さく首を振った。
可哀想に、オクチョンは今、どれほど怯えているだろう。いきなり殿舎に踏み込まれて義禁府に連行されたのだ。義禁府は王命によって罪人が裁かれる場所である。その拷問は大の男でも耐えられぬほど過酷だと知られている。か弱いオクチョンが拷問されれば、下手をすれば死んでしまうだろう。
「急ごう、ホ内官。手遅れにならない中に」
粛宗は義禁府に向かう脚をいっそう速め、小走りになった。
同じその頃。オクチョンは義禁府の取り調べ室で尋問を受けていた。
「では、どうあっても、張尚宮さまは、ご存じないと言われるのですね」
尋問しているのは、先刻の隊長らしい男とは別の男だ。迎えにきた男よりは幾分年長らしく、細面であった隊長に比べて、大柄で横幅も大きい。もっさりとした熊のような印象である。
オクチョンは頷いた。
「当然ではありませんか。私は天に誓って、中殿さまを呪詛などしておりません。ただ占い師を呼んだだけで、どうして呪詛などという物騒な話になるのか判りかねます」
「しかし、その占い師自らが証言したのですよ」
オクチョンの眼がわずかに見開いた。
「占い師が捕らえられたのですか?」
「都からゆく方をくらませて郊外に隠れ住んでおりました。あと一歩のところでした」
「あと一歩とは?」
「我々が踏み込んだときは自害していたのです。側に書き付けが転がっていました」
これです、と、男がオクチョンの前の机に無造作に封筒を投げた。
室内は昼なおうす暗く、周囲には拷問に使用すると思われる様々な刑具が立てかけられている。まともな神経の持ち主ならばまず、この物々しい雰囲気だけで気圧され、はや拷問の前に自白を始める気弱な者もいる。
にも拘わらず、眼前のこのたおやかな女人は、いささかも動じる風はない。連行され、この部屋に入ってからも端然と木の簡素な椅子に座し、真っすぐに取調官を見つめて質問に答える。ただし、応えはすべて同じで、
―天に誓って呪詛などしていない。
ばかりではあったが。
長年、取調官を務めた経験と勘が、この女人は無実だと告げていた。大体、本当に罪を犯した者であれば、取り調べ官をこのように澄んだまなざしで見ることはない。どれだけ肝が据わっていようが、根っからの悪だとしても、視線が泳ぐとか何かしら兆候があるものだ。
しかし、この女人には、ほんのわずかの偽りもなかった。
ただ、それでは困るのも確かだ。上役からは
―何としてでも、張尚宮からの自白を引き出せ。
と厳命されている。
詳細は聞かされてはおらずとも、事の成り行きは取り調べ官にも理解できた。張尚宮捕縛が国王ではなく大妃からの命だと聞いて、事の絡繰りが判らぬ阿呆はいないだろう。
大妃は王の寵愛を一身に受ける張尚宮を眼の敵にしている。先の仁敬王妃はまだ亡くなったばかりだが、十九歳の王には一日も早く新しい王妃を迎え、次の王位を継ぐべき世子を儲けることが期待されている。そのために、張尚宮を大妃はどうあっても後宮から追放したいと願っているのだ。
仁敬王妃呪詛という、ありもしない大罪を張尚宮になすりつけ、処刑してしまえば、後宮どころか、この世から抹殺できる。
取り調べ官は深い息を吐いた。
「か弱い女人に拷問をするのは、我々としても本意ではありません。できることなら、事を穏便に済ませたいのです。もう一度、お訊きしますが、崩御された中殿さまを呪詛した憶えはありませんか」
オクチョンは背筋を伸ばして、取り調べ官を見つめた。
「ありません。先ほどから何度同じことを言わせるつもりです? やっていることなら応えようもあるが、やっていないものはやっていないとしか言いようがないではありませんか」
オクチョンは先刻、兵士が放った封筒を開き、薄い紙をひろげた。そこには走り書きで、
―妖婦張尚宮に大金をちらつかせられ、空恐ろしい謀に乗ったが、事後、あまりの我が身の犯した罪の重さに耐え難くなった。
そんなことが書かれていた。
オクチョンは遺書を折りたたみ、封筒に戻しながら言った。
「亡くなった占い師本人が本当に書いたものですか?」
「むろん、それも調べております。生前に本人が記した筆跡と一致しました」
大真面目に応える取り調べ官に、オクチョンは一笑に付した。
「一致するも何もないでしょう。その遺書そのものが偽物なのだから」
オクチョンは眼を閉じた。
「私が罪深さを感じるのは、ありもしない罪に対してではない。私のせいで、罪なき人が亡くなった、もとい殺されたということです。あなた方は私の罪を作り上げるために、占い師を殺した。そして、偽の遺書を作り上げた。―違いますか?」
取り調べ官が初めて感情を露わにした。
「だとしたら、どうだというのですか、尚宮さま。我々は義禁府の役人です。上からの命令には逆らえません。上役が白を黒だといえば、私たちもそう言わねばならないのです」
オクチョンは、一旦開いた眼をまた瞑った。固く閉じた眼から、ひと筋の涙が糸を引いて流れ落ちた。
「大妃さまは、そこまでして私を亡き者にされたいのですね」
怒りよりも哀しさ、やりきれなさが勝った。亡き王妃に汚水をかけられたときも感じた、あの哀しみと同じだ。誰かにそこまで自分が憎まれていると想像しただけで、辛くて堪らない。
取り調べ官の言葉は間違ってはいない。彼等にも家庭があり、妻子がいる。大切な家族のためには、職を失うわけにはゆかず、悪くすれば、秘密を知ったばかりに彼等自身が?始末?されることだってある。
オクチョンは眼を開き、しっかりと取調官を見つめた。
「私の応えはあくまでも同じです。幾ら質問されても、やっていない罪を認めることはできません」
「判りました。尚宮さまがそこまで仰せなら、仕方ない。私としては気が進みませんが、自白して頂きます」
取り調べ官が溜息混じりに言った。
急遽、拷問の準備が整えられた。義禁府の建物の前は、ちょっとした広場になっている。ここで事件の容疑者と被害者などが一堂に会し、義禁府長の裁きを受ける場ともなる場所だ。
今、その広場には小さな椅子が持ち込まれた。取り調べ室にあったのと同じ作りの極めて簡素なものだ。オクチョンはそこに座らされ、手足を背もたれや椅子そのものにくくりつけられた。
先刻の取り調べ官が拷問もするらしい。よく見かける刑杖のようなものを持ち、オクチョンの側に佇んだ。
「もう一度だけ申し上げる。自白をされる気はありませんか」
この男はオクチョンの悪びれない態度に、清々しさを感じていた。できれば、この可憐な娘に惨い拷問を与えたくはなかった。
だが、オクチョンは凛然として言った。
「やっていないものは、やってない。何度言わせたら判るのですか」
オクチョンの強情さに、取り調べ官が溜息をついた。
「自白する気になったら、すぐに言って下さい」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻 作家名:東 めぐみ