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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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「たとえ占い師を呼んだのは事実であっても、尚宮さまは間違っても中殿さまを呪ったりはしていません。ゆえに、尚宮さまの嫌疑もすぐに晴れるのではありませんか」
 だが、申尚宮は、ミニョンほど事態を楽観はしていないようで、真顔で言った。
「そなたはまだ若いな」
「それは、どういう意味ですか?」
「罪など、作ろうと思えばすぐに作れるではないか」
「―!」
 ミニョンがハッとしたような表情(かお)になった。
「では、申尚宮さま、我らが尚宮さまを誰かが陥れようとして」
「そのとおり、これは謀略だ」
「謀略」
 ミニョンの声が戦慄いた。
「ミニョン、私は三十年以上、この伏魔殿と呼ばれる後宮で生きてきた。かつて我らが尚宮さまのように、義禁府に連行されたご側室を見たこともある。それらの罪の大方は、ありもしない、つまりはでっち上げにすぎなかった」
「では、そのお妃さま方は亡くなられた?」
 ミニョンは今にも倒れんばかりに蒼白だ。
 申尚宮は神妙な顔で頷いた。
「処刑されたお方もいれば、証拠不十分で不起訴になり、許されて釈放された方もいる。されど、いずれにせよ、一旦嫌疑をかけられ、その後、生き延びた方はおられぬ」
「何故ですか? 証拠がなくて許されたなら、処刑される必要はないのでは」
 申尚宮が複雑そうな表情でミニョンを見た。その眼は憐れむような光があった。
「確かに生きて後宮には戻られた。さりながら、ある方は後宮の女としての体面を穢したとして、後宮の規律によって再び裁かれ、鞭打たれた挙げ句、亡くなった。またある方は連行された自らを恥じて首をくくられた。とはいえ、自害というのも表向きで、内実は殺されたのだという噂が後を絶たなかった」
「それでは」
 後の言葉をミニョンは最後まで言えなかった。ひとたび義禁府に連れて行かれれば、最早運命は決まり、死から逃れるすべはないということなのだ。
「どうすれば良いのですか、では、どうすれば尚宮さまをお救いできるのでしょう」
 半泣きのミニョンに、申尚宮はゆっくりと言った。
「残念だが、我々ができることは何もない。ミニョン、尚宮さまは仰せであった。後のことを頼むと。せめて我らは取り乱して見苦しい様を見せず、尚宮さまのご無事なお帰りをお待ちするしかない」
 ミニョンが口元を覆い、その場に泣き崩れた。申尚宮はその側で、さりげなく周囲を油断なく窺った。いつもは温厚で部下にも優しい彼女からは信じられないような鋭利なまなざしである。
 今回のことは、予め予測され得た出来事ではある。しかしながら、当の占い師にも多額の礼金を弾んでやり、よくよく言い含めて都を離れさせた。他言すれば生命に拘わるとも脅したゆえ、あの占い師から洩れたとは考えにくい。
 だとすれば、どこから洩れたかだ。考えたくないことではあるけれど、この宮に間諜がいたという理由しかないだろう。恐らく、今回の張尚宮捕縛を粛宗はまだ知らないはずだ。すべては大妃の一存で行われたに違いない。
 粛宗が知れば激怒するだろうが、一度発せられた?王命?を取り下げるのも難しい。何故なら、国王の尊厳に拘わることだからだ。
 大妃はそのことを百も承知で、事を急いだはず。粛宗に知れる前に張尚宮を連行し、できれば処刑まで持ってゆきたいだろう。処刑まではいかずとも、少なくとも?処刑確定?までは急いで事を進めようとするに違いない。何故なら、一度刑が確定してしまえば、国王だとて覆すことは難しくなるからである。
 ミニョンにも告げたように、今は打つ手は何もなかった。期待できるとすれば、刑が確定するまでに王がこのことを知り、止めてくれるしかなかない。王命を取り消すのは難しいが、また取り消せるのも?王命を発したその人?である国王しかいないのだ。
 粛宗が己れの体面など顧みず、王命を取り下げてくれれば、張尚宮の生命は辛うじて保たれる。今は国王の張尚宮への想いが生半可ではなく、より深く強いものであるのを祈るしかなかった。
 それにしても、一体、何者が張尚宮さまを陥れようとする悪辣な大妃に荷担しているのか。
―許さぬ。
 申尚宮は怒りに燃える眼を周囲に向けた。どの女官もすべてが沈んだ面持ちで、力なくうつむいている。だが、この中に確実に裏切り者がいるのだ。心優しい主君を大妃に売り渡した許し難い裏切り者が。
 容赦はしないというように、申尚宮は尚宮のお仕着せの上衣裾下で握りしめた両手に力を込めた。
 
 粛宗が張尚宮義禁府連行の報せを受けたのは、オクチョンが殿舎から引き立てられるように連れ去られるのに遅れること一刻余りであった。大妃が関与しているのを考えれば、まだしも早かったといえるだろう。 
 つまりは、それほど粛宗の張尚宮への寵愛は深いと誰もが認識していたのだ。大妃に迎合して張尚宮の危機に知らん顔をし、王の無用な怒りを買いたいと願う者はどこにもいないだろう。
 若い王が爺やと呼んでいる信頼する大殿内官は、現在、内官たちを統括する内侍府長も兼ねている。その大殿内官に張尚宮捕縛をいち早くを伝えたのは、他ならぬホ内官であった。ホ内官はミニョンと恋仲であった経緯から、張尚宮派である。
「何だと? オクチョンが」
 粛宗は事の次第を聞き、眼を通していた訴状の山を放り出し、大殿を飛び出した。向かう先は義禁府である。
「オクチョンが中殿を呪うなど、あろうはずがない」
 粛宗は繰り返した。
「あれほど心の清らかな女はいない。だからこそ、側に置いているのだ」
 伴ったのは通告してきたホ内官であった。老齢の爺やは到底、早足でついてくるのは無理だ。
 賢明にもホ内官は王の独り言に対して、何も応えなかった。その時、王は初めて若い内官が四年前、池に落ちたオクチョンを助けた内官であることに気づいた。
「そなたは、確かオクチョンを助けた内官ではないのか?」
「さようにございます」
 ホ内官は丁重に応えた。
「今回は、またしても、そなたがオクチョンの危急を知らせてくれたのだな」
 実のところ、粛宗はオクチョンからお付き女官ミニョンとホ内官の恋愛を聞いて知っていた。共に相思相愛なので、できれば結婚して幸せになって欲しいと、オクチョンは言っていた。
「いつも他人のことばかりにかまけて、自分は二の次だ。お人好しもあそこまで来ると、上に何とかがつくな」
 粛宗が呟くと、ホ内官がクスリと笑いを洩らし、慌てて咳払いでごまかすのが聞こえた。
「だが、その少し抜けたところが堪らぬ。可愛い、守ってやりたいと思う。男心とはなかかなか複雑なものだな、ホ内官」
 呼びかけると、今度は畏まった返答が返ってくる。
「イ女官から聞き及ぶ張尚宮さまの御事を聞きましても、そのように私も思うところがございます」
 言った後で、不敬がすぎたかとホ内官が顔色を変えたため、粛宗は破顔した。
「確かにな、さしずめオクチョンの武勇談をそなたはイ女官から山のように聞いておるのであろう。あれは、見かけによらぬおっちょこちょいだ。だが、先ほども申したように、その抜けたところが魅力でもある。できれば、イ女官の話の中に朕が登場しなかったことを祈るばかりだ、ホ内官」