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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 しかし、天はオクチョンのその願いを嘲笑(あざわら)うかのように、月のものは毎月決まって来て、オクチョンはその度に厠でひっそりと涙を流した。
 子が産めないのなら、何か他に少しでもスンのためになることができないか。そう考えて龍袍を縫い始めた。龍袍は赤色ではなく、群青色の布地を選んだ。スンの黒曜石のような美しい瞳を引き立てる色合いだ。既に本体はできあがり、今は龍を金糸、銀糸で丹念に刺繍している最中である。五本爪を持つ天翔る龍は国王の象徴だ。
 オクチョンはスンのこれからの健康と幸いを願って、ひと針ひと針、心を込めて針を刺してゆく。
 一刻ほど刺した後、オクチョンは手を止めた。刺繍はまだ漸く半分ほど仕上がったばかりで、まだまだ先が長い。急いても良いものはできないのは判っているため、休みを入れつつ根気よく仕上げてゆくのがコツだ。
 さしかけの龍袍を畳んで文机に戻し、硬くなった肩を拳で叩く。ミニョンと申尚宮は隣の控えの間にいる。オクチョンが刺繍に没頭しているときは、二人とも遠慮してくれているのだ。疲れたときは甘いものを食べるに限る。二人を呼んで香草茶でも飲もうかと思案し、声を張り上げた。
「申尚宮、そろそろ一服したいの」
「畏まりました」
 申尚宮が即答し、扉が開いた。文机の上の龍袍を丁重な手つきで平たい盆に乗せ、別室へと運ぶ。ミニョンがその様子を見て、心得た様子でお茶の支度をしに出ていった。
 そのときだった。俄に表が騒がしくなった。大勢の足音、女官たちのかすかな悲鳴。
 ただならぬ様子に、申尚宮が弾かれたように顔を上げ、オクチョンも眼を見開いた。茫然としている二人の前で、扉が荒々しく開いた。
 立っているのは武装した男たちである。
「張尚宮さま、至急、義禁府までご同道お願い申し上げます」
 それでも、兵士は国王のただ一人の想い人に丁重な口調で述べた。が、所詮は連行と変わらない。
 オクチョンは蒼褪めつつも、平静を装って訊ねた。
「一体、何の罪科で私は連行されるのですか?」
 三十ほどの男は淀みなく応えた。
「崩御あそばされた中殿さま呪詛の件にございます」
「呪詛!?」
 あまりの愕きに、ヒュッと喉が鳴った。言葉もないオクチョンに代わり、申尚宮がかみつくように言った。
「義禁府といえば、王命によって罪人が裁かれる場所ではないか。そなた、確かに国王殿下のご命令を承っておるのであろうな」
 ひげ面の男は平然と応える。
「子細は存ぜぬが、こたびの件は大妃さまの思し召しによるものと聞いています」
「大妃さまの―」
 申尚宮が息を呑んだ。現状で、粛宗がオクチョンを断罪するとは考えがたい。三日前も王は愛してやまない恋人の許を訪ねたばかりだった。
「我々はただ、上から与えられた命令を遂行するのみです。畏れ入りますが、張尚宮さま、ご同道をお願い致します。万が一、抵抗された場合、我々はあなたを捕縛することになりますが、できれば殿下のご寵愛も厚いおん方に縄打つような真似はしたくないのです」
 兵士は義禁府ではかなりの身分らしく、物言いもそつがなく態度も丁重だ。
 兵士の言い分は的を射ている。今、ここで無闇に逆らったとしても、かえって疑惑を深めるばかりだろう。
 オクチョンは毅然として言った。
「判りました。行きましょう」
「尚宮さま」
 申尚宮が悲鳴のような声を上げた。オクチョンは母とも信頼する申尚宮を安心させるように微笑みかけた。
「大丈夫、私は何も悪いことはしていない。何がどうして、呪詛などしたという話になっいるのか判らないけれど、後ろ暗いところがないのなら、嫌疑はすぐにでも晴れるはずよ。あなたに後は任せるから、殿舎の管理をお願いね」
 踏み込んできたのは一人だったが、表には更にたくさんの兵士が待ち受けていた。か弱い女一人によくぞこれだけの数を率いてきたものだと呆れるばかりである。オクチョンは何も持たず、そのまま兵士に引き立てられるようにして殿舎を出た。
 庭には数十人の義禁府の兵士がたむろしている。それに混じって、オクチョンに仕える女官たちは皆、狼狽え、なりゆきに怯えていた。気の弱い者は、早くも声を上げて泣いている。
 兵士たちの一団がオクチョンを取り囲んで動き始めたその時、金切り声が張り詰めた静寂をつんざいた。
「尚宮さま、尚宮さま!」
 小卓を持ったまま、ミニョンが階の途中に立ち尽くしていた。
 何事もなければ、これからミニョンの淹れた香草茶と大好きなお菓子で愉しい時間を過ごすはずだったのに。
「ミニョン、申尚宮と大人しく私の帰りを待っていてね」
 わざと笑顔で明るく言うのに、ミニョンの可愛らしい顔がくしゃりと歪んだ。その場に小卓を放り出し、ミニョンは階を駆け下りた。
「行ってはいけません、尚宮さま。行かないで」
「これは義禁府からの通達だから。王命によって動く義禁府の呼び出しを、殿下にお仕えする私が拒むわけにはゆかないわ」
 オクチョンが諭すように言うと、ミニョンは烈しく首を振った。
「何かの間違いです。国王さまが尚宮さまを罪に問うなど、あるはずがありません。一体、何の罪で我らが尚宮さまを連れてゆくのだ! これほど清廉なお方はおられぬからこそ、我ら一同、尚宮さまをお慕いし、心を一つにしてお仕えしているというに」
 しまいはオクチョンを連行してゆく先刻の隊長らしい男に向けて詰問口調で叫ぶ。
 ひげ面の男は眉一つ動かさず応えた。
「現段階では、張尚宮さまが中殿さまを呪詛した嫌疑が持たれている」
「馬鹿な! 尚宮さまがそのようなことをなさるはずもない」
 一笑に付したミニョンに、男は淡々と告げた。
「歴とした証拠が上がっている以上、我々は職務を忠実に果たすまで」
「証拠とは? 何を持って、そのようなたわ言を抜かすのだ!」
「ひと月前、張尚宮の殿舎に怪しい占い師が出入りしたという情報がある」
「ーっ」
 ミニョンの双眸が刹那、男を射るように大きく見開かれた。
 行列が再び動き始め、オクチョンは引き立てられていった。
 ミニョンはがっくりと肩を落として立ち尽くした。オクチョンが遠ざかってゆくにつれ、女官たちから洩れるすすり泣きは高くなる。
 皆がうつむいて悲嘆に暮れる中、申尚宮がミニョンの肩を叩いた。
「申尚宮さま、私、とんでもないことをしてしまったのですね」
 ミニョンの呟きに、申尚宮は深刻な面持ちで頷いた。
「占い師を呼ぶ前に、私に相談してくれたら良かったものを。このようなこともあろうかと、占い師には大枚を渡し、しばらくは都を離れて様子を見るようにと申し渡しておいたのだが」
 申尚宮が小さくかぶりを振る。
「一体、いずこから情報が洩れたのか判らぬ」
「この殿舎の女官が占い師のことを他に洩らすとは思えません。皆、尚宮さまに心からの忠誠を誓っております」
 ミニョンの確信に満ちた口調に、申尚宮は愁いに満ちた顔で言った。
「そうであれば良いのだが」
 人の心など、甘い餌をちらつかされただけで容易く変わるものだ。長く後宮で生き抜いてきた申尚宮は、年若いミニョンよりは、はるかにたくさんの物を見てきている。