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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 むろん、王妃は張尚宮を見ようともしない。まったく無視した形なのに、当の張尚宮は礼儀をわきまえ、深々と頭を下げている。あまつさえ、王妃に付き従う若い女官の一人が
―身分の賤しき者は、宮中のしきたりも知らぬと見える。
 などと、余計なひと言を投げた。王妃にしてみれば、まさに自分が言ってやりたい科白ではあったけれど、流石にそこまで不躾ではない。何より王妃と名家の令嬢としての誇りがそんな不作法を許さない。
 自分の代わりに憎らしい張尚宮に嫌みを言ったのだから、正直、褒美を取らせたいほどだった。
 けれど。しばらく歩いて王妃が振り返った時、流石に張尚宮はもう頭を上げていた。王妃としては癪だが、振り向かずにはいられなかったのだ。女官風情に蔑まれ、良い気になっている張尚宮がどのように悔しがっているか、その顔を見てやりたいという好奇心に勝てなかった。
 が、王妃がそこで見たのは信じられない光景であった。張尚宮は婉然と微笑んでいたのである!
 良人の愛を独占する世にも憎らしい女は、薄い笑みを湛えて、こちらを見ていた。刹那、王妃は背筋から冷たいものが這い上ってくるのを自覚した。
―張尚宮が怖い。
 咄嗟に洩らした呟きを、たまたま側に控えていた楊尚宮は聞き逃さなかった。
 中宮殿に戻り、二人だけになった時、楊尚宮はその理由を王妃に訊ねたのだ。
 と、こんな応えが返ってきた。
―私はちゃん・オクチョンという女が恐ろしい。どうして、あの状況で笑えるのか、気持ちが読めない。これまでも何を考えておるか腹の底の読めぬ女だと思うてはいたが、余計に空恐ろしくなった。
 以来、王妃はますます塞ぎ込むことが多くなった。楊尚宮がたまには外に出て庭を歩いてはと勧めても、
―また、あの女に出逢うと考えただけで怖い。
 と、張尚宮への恐怖をしきりに訴えていた。
 楊尚宮からすべての話を聞き終え、大妃は思案に耽るかのように眼を閉じた。
「そのようなことがあったとはのう」
 大妃は愚かな人ではなかった。―どころか、聖君と讃えられる粛宗を産み育てたひとだ。生来は聡明な一面を持つ女性であった。
 大妃はこの時、悟ったのだ。亡くなった王妃は張尚宮とは所詮、同じ土俵で戦えるほどではなく、張尚宮の方が器が大きかったということだ。言い終えれば、したたかとも言えよう。
 深窓育ちで甘やかされて育った王妃が勝てる相手ではなかった。何しろチャン・オクチョンは奴婢上がりからここまでのし上がってきたのだ。一筋縄でゆくはずもない。
 だが、張尚宮の器を認めたからとて、大妃があの女を息子の嫁として受け入れられるかといえば、そうではない。むしろ、可愛い姪を気鬱の病になるまで追い詰め、ついには死に至らしめた―この場合、張尚宮には何の罪もないが、大妃にしてみれば、王室に起こるすべての凶事はすべて忌々しいあの女のせいだと思いたい―憎き女として、今や張尚宮への怒りは以前にも増して燃え盛っていた。
「そのようなことがあれば、気鬱の病になるのも無理からぬこと。私がもっと早く気づいてやれば良かったのだが」
 王妃が数年前から、気鬱の病に取り付かれ、不眠や悪夢に悩んでいたことそのものは知っている。だが、それは良人である王が張尚宮にばかり心を寄せていることや、なかなか懐妊できないのを気に病んでのこととばかり思っていた。王妃がそこまで張尚宮を脅威だと思い込んでいるとは考えていなかったのだ。
 大妃は改めて楊尚宮を見た。
「そなたも長きに渡って、ご苦労であった。中殿が入内した折から教育係となり、今日まで、まめやかに仕えてくれたことに対して礼を言うぞ。これより後、いかがするつもりだ?」
 楊尚宮は眼を伏せた。
「私は独り身ゆえ、子がおりません。幸いにも弟の次男を養子にしておりますので、これからは息子の屋敷に身を寄せて中殿さまの御霊をお慰めしつつ余生を過ごしたいと考えております」
「そうか。返す返すも忠義の者であることよ。早世はしたが、そなたのような忠義の者が側にいて、中殿はまだしも救われよう。だが、後宮を去るのはまだ早い。そなたには、まだ働いて貰わねばならぬ」
「と、申しますと?」
 楊尚宮が眼をまたたかせ、大妃を見上げた。
 大妃が口の端をわずかに引き上げた。
「主上はまだお若い。亡くなった中殿には気の毒だが、やはり次の王妃を迎えぬというわにもゆくまい」
「お言葉ですが、国王殿下におかれましては、もう二度と妻帯するつもりはなく、今後、後宮の女人は張尚宮一人で良いと仰せとか」
 大妃が嘲笑うように言った。
「そのようなこと、幾ら主上が仰せでも、まかり通るはずがない。主上はまだ十九歳のお若さだ。男盛りの国王が王妃を迎えないわけにはゆくまいて。ましてや、主上にはまだ世継ぎがおられぬ。中殿の喪が明け次第、すみやかに新しい王妃を立て今度こそ健やかなる世継ぎを授からねばなるまい」
「確かに大妃さまの仰せのとおりではございますが」
 楊尚宮は、大妃のまくしたてる勢いに圧倒されているようだ。
 大妃は淡い笑みを浮かべたまま続けた。
「そこで、そなたの出番だ」
「―」
 楊尚宮は茫然と大妃を見た。
「姪に長らく忠誠を尽くしてくれたその功績を見込んで、そなたには次に迎える新しい王妃付きの筆頭尚宮を任せたい。どうだ、引き受けてくれるか」
 楊尚宮の細い眼が感動の涙で濡れた。
「勿体ないことにございます、大妃さま」
 そこで、大妃が表情を引き締めた。
「されど、女狐が後宮で幅をきかせていては、また同じ悲劇が起きるやもしれぬ」
「張尚宮にございますね」
「そうだ」
 大妃は我が意を得たりとばかりに頷く。大妃は溜息を吐いた。
「何とかして、あの女狐を主上の側から追い払うすべはないものか」
 いかにせん、今の状況では粛宗の張尚宮への寵愛が厚すぎて、張尚宮に手出しができない。大妃の思考はめまぐるしく回転した。元々、この女人にとって策略を巡らせて他人の裏をかくのは趣味のようなものだ。
 チャン・オクチョンを追い払う手立てがないこともない。王の曇りきった眼を覚まさせてやることだ。つまりは張尚宮が王の寵愛を失うように仕向ければ良い。この場合、寵愛は信頼といっても良いだろう。
 突如として、大妃の物想いを楊尚宮の声が破った。
「畏れながら、私に考えがございます」
「うむ、何だ、申してみるが良い」
 今この時、あの妖婦を息子の側から追い払うためなら、何だってする。大妃の期待のこもった眼に、楊尚宮は恭しく言った。
「由々しき噂がございます」
「由々しき噂とは何だ、勿体ぶらずに申せ」
 大妃の声が甲高くなり、これはヒステリーの前兆だと気づいた楊尚宮は慌てて言った。
「張尚宮の殿舎に邪悪な占い師が出入りしていたそうです」
「邪悪な占い師」
 その瞬間の大妃の表情の方がよほど?邪悪?といえるかもしれなかった。勝ち誇ったような表情で、大妃は呟いた。
「その占い師は何用で張尚宮に招かれたのであろうな」
「中殿さまのお腹の御子の性別を知るためであったとか」
「ホウ」
 大妃の眼が剣呑に光った。
「だが、何ゆえ、そのような情報をそなたが知っている?」
「実は」
 楊尚宮が少し前進し、低声で大妃に告げた。