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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 女官はひそかに思った。大妃のたおやかな白い手は到底、四十近い女性のものとは思えない。水仕事一つしたことのない貴人であるからこそ、このような手でいられる。
 それに引き替え、我が身はどうだろう。大妃よりは数歳若いけれど、十歳に満たぬ間に入宮し、水仕事や様々な雑用に追われている中に、こんなに荒れてしまった。大妃の白い手は染みひとつなく、今や彼女の卓越した爪染めの技術によって春に咲く桜を思わせる薄紅に染まっている。
 いつも以上に良い仕事が出来たと自分では思うのに、大妃は気に入らないという。まったく、大妃の気を立たせる張尚宮のお陰で自分を初め、大妃殿の女官たちは皆、気の休まる暇がない。自分は何も張尚宮に恨みがあるわけではないけれど、こうまで主人の気を苛立たせる存在である張尚宮が恨めしい。
 彼女は老齢にさしかかった母と二人暮らしである。宮仕えを辞めようにも、辞めたその日から母子二人、その日を暮らしてゆくのに困る仕儀になる。そのため、思うに任せない日々にも耐えているのだ。
 女官が大妃には知られないように小さな息を吐いたそのときだった。
 大妃に仕える尚宮が入室してきた。何事か大妃の耳許で囁くと、大妃が頷いた。
「即刻、通せ」
「承知致しました」
 尚宮が出てゆかない前に、大妃が顎をしゃくった。
「今日はもう良い」
 つい先刻まではあれほど爪染めに拘っていたというのに、もう関心をなくしたようである。あまりの気まぐれに最早、呆れるしかない。女官はそれでも最後まで気を抜かず、恭しく頭を垂れ、爪染めの道具を手早く纏め、これ幸いとばかりに御前を下がった。
「中宮殿の楊尚宮がまかり越しております」
 来訪者は分かり切っているのだが、いちいち大声で扉外の女官が伝える。それが宮中のしきたりであるからだ。
 ほどなく両開きの扉が外から開き、一人の女が入室してきた。深々とお辞儀をするのを、大妃は無表情に眺めた。
「折り入って話があるとか聞いたが」
「大妃さまのご尊顔を拝し奉り、真に恐悦至極に―」
 言いかけた揚尚宮の挨拶を大妃は鋭く遮った。
「長口上は必要ない。用件だけを述べよ」
 最近、とみに短気になりつつある大妃は素っ気なく言う。
 楊尚宮は落ち着きない様子で、大妃の少し下手に控える尚宮を見た。この尚宮は大妃殿の筆頭尚宮で、大妃の信頼も厚い。そろそろ四十代も終わりにさしかかった楊尚宮よりは幾分若い。
「この者は私が身内とも信頼している。人払いの必要はない」
 大妃は言い切った。楊尚宮は頷いた。
「今日は、こちらをご持参致しました次第」
 抱えてきた牡丹色の包みを大妃の前の文机に置いた。
「これは何じゃ」 
「亡くなられた中殿さまのご遺品にございます」
「中殿の?」
 頑なだった大妃の表情がかすかにやわらいだ。
「はい、産気づかれる少し前でしたか、何を思し召したのか、ご自分にもしものことがありしときは、こちらを大妃さまにお渡しするようにと仰せでした」
「―」
 大妃は黙って風呂敷を解いた。包まれていたのは、見事な螺鈿細工が施された宝石箱だ。さほど大きなものではないが、蘭の花が象眼されている。更に蓋を開ければ、美しい紐で束ねられた髪の毛と翡翠のノリゲ、対になった指輪と耳飾りが現れた。
「これは中殿が大切にしていたものではないか」
 大妃は眼を見開いた。楊尚宮が深く頷いた。
「さようにございます。中殿さまが王室に嫁がれる前、父君の府院君さまが名のある名工に特別に作らせた逸品にて、中殿さまはよくこの箱を開いては、ご実家の父君や母君を思い出されておいでのようでした」
「憐れな。やはり、どのように気遣うても私では父母の代わりにはならなかったのだな。幼くして両親の許を離れ、この宮中で心淋しかったのであろう」
 大妃は遠い瞳になり、呟いた。
「されど、もし何かあったときにはとは、不吉ではないか。中殿は自分の身に起こるであろう不幸を予感していたのか」
 楊尚宮はわずかに首を傾げた。
「中殿さまは一度、折角授かられた御子を流産されたことがございます。あの折はまだご懐妊まもなく大事には至りませんでしたが、その時、ポツリとこのようなことを仰せでした」
―私はもしや健やかな御子を産むのは難しいのかもしれぬ。
 中殿に限らず、大切に育てられた両班家の姫君は蒲柳の質で、身ごもることそのものが難しい場合、また懐妊しても流産したり、難産、死産になる場合は少なくなかった。
「そのようなことを中殿が申したのか」
 大妃は呟き、瞳を閉じた。
「覚悟の上の懐妊、出産であったのだな」
 心なしか、その瞬間、大妃の周囲に張り巡らせた鉄壁の壁が脆くも崩れ去った。眼尻に浮かんだ涙を素早く拭い、大妃は楊尚宮を見つめた。
「ご苦労であった。中殿の心は確かに受け取った」
 暗にこれで用は済んだから帰れとの催促だったのだが、楊尚宮はなおも動こうとしない。
「まだ何かあるのか?」
 大妃はヒステリーではあるが、けして鈍くはない。楊尚宮の様子からして、まだ言いたいことがあるのだと察した。
「大妃さま、中殿さまはある人物を殊の外怖がっておいででした」
「中殿が怖がっていた?」
 大妃の眼が光った。楊尚宮でさえ、ゾッとするほどの酷薄な眼だった。
「中殿は国王殿下の妻であり、国母ではないか。この国至高の女人が畏怖するような者がいるとは考えられぬが」
 楊尚宮は少し躊躇っていたようだが、次の瞬間、思い切ったように、ひと息に言った。
「張尚宮にございます」
「張―尚宮。チャン・オクチョンか」
 大妃がひとり言のように言い、楊尚宮を真正面から見つめた。
「張尚宮が中殿を脅かすようなことをしたというのか?」
「いいえ」
 楊尚宮は、これはきっぱりと否定した。が、続けて思いもかけないことを言った。
「実は、このようなことがこざいました」
 後宮内は広いとはいえども、所詮は同じ敷地内である。移動中、正室と側室が偶然、遭遇することはままある。その時、王妃はたくさんの女官を引きつれて大殿に向かっている最中だった。そこに、向こうから張尚宮がやってくるのにぶつかった。
 中宮殿と張尚宮の殿舎の女官たちは一様に仲が悪い。今や張尚宮は国王の寵愛を独占し、正室とはいえ、中殿はうち捨てられた花の感は否めない。もちろん、従姉でもある妻を王が疎かにするわけではないが、その扱いは寵愛を独り占めする張尚宮に比べれば、いかにも形式的だ。
 中宮殿の女官たち揃って張尚宮を敵と見なし、その敵意は当然、張尚宮に仕える女官たちにも伝わった。表立っての諍いこそないが、互いに後宮内ですれ違えれば、眼を合わすこともせず、そっぽを向き合うのだ。
 だからこそ、王妃と張尚宮が鉢合わせしたその時、誰もが一触即発だと感じた。ところがである。
 張尚宮は遠くから王妃を認めると、早々に脇へ寄り頭を下げた。張尚宮はいつも少数の伴しか連れていない。大抵はお気に入りの筆頭尚宮と若い女官二人である。これは高貴な身分の者にしては型破りともいえる。
 幼いときから常に大勢の伴回りにかしずかれて育った王妃には、受け入れがたいことである。それはともかく、張尚宮は王妃の一行の邪魔にならぬよう脇へ身を寄せた。その前を王妃が通ろうとしたときだ。