炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻
「大げさね。あなたは元々、有能な人だったのよ、ミニョン。ただ、あなた自身がそれに気づかなかっただけ」
オクチョンが笑えば、ミニョンは大真面目に首を振る。
「だとしても、それに気づかせて下さったのは尚宮さまです。ですから、私は尚宮さまに生涯お仕えして忠誠を捧げるつもりです」
「ミニョン」
オクチョンは優しく語りかけた。
「あなたの気持ちはとても嬉しい。私は今でも、あなたを友達だと思っている。でもね、あなたの生涯はあなた自身の大切なものよ。そして、自分の一生は誰かのためではなく、他でもない自分のために生きるものよ。だから、私のことなど考えず、自分が幸せになれる人生を生きてちょうだい。それが私からのお願いよ」
「尚宮さま」
ミニョンは今度は本当に泣き出した。
「では、本当のことを申し上げます」
「本当のこと?」
首を傾げたオクチョンに、ミニョンは続けた。
「確かに私はホ内官に特別な感情を抱いています。傍目には、私たちは恋愛関係にあると見えるでしょうし、それに間違いはありません。ただ、ホ内官は貧しい平民の出で、ホ氏には養子に入った方です」
「そうだったの」
初耳であった。ホ内官の父は先代の内侍府長(内官長)であったと聞いている。いわば、名門だ。その子息ゆえ、ホ内官は内侍府でも期待のエリートだ。頭が切れると同時に人望もある男だと専らの噂である。しかし、そのホ内官の父が実は養父であったとは知らなかった。
「ホ氏はかなりの名門です。今の当主、先代の内侍府長さまも他家から養嗣子となって入られたと聞きました。またホ内官も同様に内子(ネジヤウォン)院(内官になるための学校)でとりわけ優秀であったため、見学にきた先代の内侍府長に見込まれて養子になられたのです。ゆえに、一日も早く身を固めて落ち着かれることを期待されています」
内官は去勢して、男性機能を喪っているから、子孫は残せない。だから、ホ家のように代々、優秀な子どもを養子に迎えて家門を存続させる。いわば跡継ぎを儲けるための結婚ではなく、名門両班家の当主としての体面を保つための結婚だ。
「それで、前(さきの)内侍府長は、ミニョンではご子息の結婚相手に釣り合わないとでもおっしゃるの?」
思ったままを問えば、ミニョンは笑った。
「そうではありません。私の実家は零落したとはいえ、いちおう両班ですし、お義父さまに特に異論はないようです。ただ」
ここでミニョンは言葉を切り、しばし視線をうつろわせた。その一瞬の仕草で、オクチョンは彼女がホ内官を深く愛しているのだと見抜いた、
「ただ?」
優しく促すように問いかけると、ミニョンは笑った。
「私はホ内官をお慕いしておりますが、一年以内に結婚退職をする気はありません」
「では、ホ内官から求婚されたのね?」
はい、と、この質問には頬を染めて頷いた。
「さりながら、宮仕えと結婚、どちらかを秤にかけたら、ホ内官には申し訳ないのですが、やはり後宮で生きてゆく方を選ぶ気持ちが勝りました」
これには表情を引き締めて、きっぱりと言う。
「まさか私に遠慮して結婚を諦めるなんてことはない?」
念を押すと、ミニョンは微笑む。
「それはありません。もしかしたら、尚宮さま、私が秤にかけたのは宮仕えと結婚ではなく、尚宮さまに対する忠誠心とホ内官への恋情であったかもしれません」
「ミニョン―」
予期せぬ言葉に、オクチョンは黙り込んだ。
「ご無礼を申し上げ、お許し下さい。でも、それが私の本心なのです。ホ内官もお慕いしていますが、尚宮さまをお慕いする心の方がもっと強い。ですから、後宮に残る道を選択しました。私の我が儘をお許し下さい」
オクチョンは涙が溢れ、言葉にならなかった。
「あなたがそんなにも私を思ってくれているなんて」
「尚宮さまの清らかなお人柄に魅せられたのは国王殿下だけではありません。私も申尚宮さま、この殿舎で尚宮さまにお仕えするすべての者が尚宮さまを心からお慕いしております」
ミニョンの真意を聞かされた今、オクチョンには何を言うこともできなかった。ミニョン自身が結婚ではなく、後宮で生きる人生を選び取るというのならば、オクチョンが口を挟むべきではない。
次に、ミニョンはその場のしんみりとした空気も吹き飛ばすようなことを言った。
「私のことはどうでもよろしいのです。大切なのは、尚宮さまのこれからです。中殿さまの御事はもちろん、後宮にお仕えする女官として痛ましい出来事であったとは思います。さりとて、先ほども申し上げたように、良人たる国王が他の女を寵愛する度に気鬱になっているような方は正直、一国の王妃たる資格がなかったとしか言いようがありません。尚宮さまも同じです、殿下が尚宮さまお一人を守って下さるならともかく、これからも何人の女君が召されるか知れたものではありません。新しい方が召される度にいちいち気にされていては、次は尚宮さまご自身が気鬱の病になられますよ」
オクチョンはこの日、しみじみと思った。ミニョンは自分が思う以上に、割り切った―理性的な考え方のできる女なのだ。伏魔殿と呼ばれる権謀術数渦巻く後宮では、時に感情が正しい判断力を狂わせることになる。ミニョンのように感情を排除して物事の動きだけを見つめられれば、時局を見誤ることもないだろう。
そうだとすれば、ミニョンがホ内官の妻としてではなく、後宮で生きる道を選択したのは何より彼女に合った人生なのかもしれなかった。
何より、オクチョン自身、ミニョンを初め、己れに仕えてくれる―こんな数ならぬ身のために、自分の人生さえ抛(なげう)とうとしてくれるあまたの女官たちのために、彼女らの信頼に応えられるだけの人物でありたい、いや、今の自分はまだ到底未熟だから、成長して、そうなりたいと願う。
更には、そこまで真摯に自分に仕えてくれようとする彼女たちに対して、何かあったときには全力で自分に忠誠を誓ってくれる女官たちを守ろうとこの時、堅く誓ったのだった。
夢でも
気に入らない。大妃は尖った声で叫ぶように言った。
「確かに濃い方が良いとは申したが、これではあまりに派手すぎる。いかにも、爪の先だけが悪目立ちするようだ」
顎をしゃくり、暗にやり直せという意思表示を示すと、大妃のほっそりとした手を恭しく捧げ持っていた女官の顔が一瞬、歪んだ。
さしもの大妃の気随気儘に慣れているベテラン女官も、あまりの気まぐれに付き合いきれないと思っているのは確かなようだ。
大妃は一瞬の女官の表情をも見逃さなかった。
「私の言葉が気に入らぬようだの」
「い、いいえ」
中年の女官は慌てて、その場に平伏した。それでなくとも大妃はここのところ、とみに機嫌が良くない。些細なことで苛立ち、大妃殿の女官たちは皆、始終神経を研ぎ澄ませていなければならない。いつ、何時、小さな過ちで、この気むずかし屋の女主人の逆鱗に触れるか知れないからだ。
この女官はもうかれこれ一刻余りにも渡って、大妃のその気まぐれに付き合わされていた。爪の染め直しを既に三度やらされている。
女官の周囲には、花の染料を水溶きした白磁の器やら、爪先を美しく染め上げるための小さな筆やらの道具が一式並んでいた。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻 作家名:東 めぐみ