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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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 オクチョンには間違っても下心などなく、ただスン―最愛の良人の母の気持ちを少しでも慰めたいと願い、心を込めて縫い上げた衣服だった。スン自身からも随分前に、?母上に服を縫って欲しい?と頼まれたことがある。今回、もちろん独断でなしたことではない。事前にスンにも相談し、スンは笑顔で
―それは手間を掛けるな。母上はとにかく、きらびやかなものがお好きゆえ、そなたの仕立てた衣服を歓ばれるだろう。
 と、歓んだのだ。妻子を喪って以来、スンが初めて見せた明るい笑顔であった。それも嬉しく、オクチョンは張り切って布地を選ぶ段階から自分で拘わった。漢陽でも随一と呼ばれる布商人を殿舎に呼び、部屋中にたくさんの単布をひろげさせ、布を選んだのである。
―大妃さまのご年齢を考えれば、あまりに派手やかな色目もいけないし、かといって、沈んだ色ではお好みに合わないわね。
 ミニョンや申尚宮も混じって、ああでもない、こうでもないと選んだのだが。
 すべては裏目に出てしまった。気に入って貰えるどころか、大妃自身の手で心を込めて仕立てた服は引き裂かれ、これ以上はないというほどの暴言を受けた。
 更に、オクチョンはある事実を知ってしまった。それは、亡き王妃が自分(オクチヨン)の存在を気鬱の病になるほど疎ましく感じていたということだ。大妃は言った。
―懐妊するまで中殿がそなたの存在にどれほど心悩ませたか、気鬱の病になり果てるまで、そなたがあの可哀想な娘を追い詰めたか、そなたは知るまい。
 大妃の言うとおり、オクチョンは知りもしなかった。自分が存在することそのものが、誰かをそこまで追い詰めるなんて考えたこともなかったのだ。
 オクチョンは涙ながらに言った。
「ミニョン、私は罪深い人間だわ」
「尚宮さま、どうして、そんなことを仰せになるのですか?」
 ミニョンの問いに、オクチョンは応えた。
「大妃さまがおっしゃっていたでしょう。亡くなられた中殿さまが私のせいで気鬱の病になっていたと」
 ミニョンは憤然と言った。
「あんな話、尚宮さまがお気になさる必要はありません」
「でも、私のせいで中殿さまは心の病気になったのよ? 自分が誰かをそこまで追い詰めるなんて、恐ろしいことだわ。そして、私は中殿さまの苦しみを少しも知らなかった。ただスンを好きだから、彼の側にいられれば幸せだと思っていた」
「尚宮さま、それが当たり前です。後宮で生きる女、特に国王さまの承恩を受けた女はたとえ中殿さまであろうが、ただの女官であろうが、皆同じです。殿下のご寵愛がそれぞれの立場を作ります。より愛された女君の方が時めくのは言わずもがなではありませんか。中殿さまは物心つく前から王妃になるべくして育てられた方ですから、当然、大勢の女たちと一緒に殿下にお仕えすることは覚悟なさっていたはず。なのに、その覚悟も忘れ果て、気鬱になどなる方が悪いと思いますよ」
 暗に王妃としての覚悟と矜持を忘れた中殿の方が悪いのだと言わんばかりである。
「だけど、中殿さまのお気持ちも判るような気がするの」
「また、そのようなお人の好いことをおっしゃって」
 ミニョンが咎めるように言うのに、オクチョンは首を振った。
「私が中殿さまのお気持ちに共感するのは、お人好しだからじゃない。むしろ、とても身勝手な理由よ」
「身勝手、ですか?」
 ミニョンが眼を見開く。
「むしろ、いつでも謙虚でいらっしゃる尚宮さまには、お仕えする私の方がもう少し殿下の唯一無二の想い人であるということを誇りにお思いになって頂きたいと思うくらいですのに」
 なおもミニョンは言う。
「身勝手という言葉は、私からすれば尚宮さまとは対極にあるように思えてなりませんけれど」
 ううん、と、オクチョンはうつむいた。
「それはきっとミニョンの身びいきというものよ。本当の私はそんな出来た人間ではないもの」
「私には、そうは思えませんけれど、そういう風なお考え方をされるのがまた尚宮さまの素晴らしいところでもありますし」
「私が言いたいのは、恋する女は皆、身勝手だということ」
「恋する女ねぇ」
 ミニョンは小首を傾げた。
「私は恋愛沙汰には縁がないので、そのような心情にはとんと疎いのです」
「あら」
 と、オクチョンは意味ありげな眼でミニョンを見つめた。
「ホ内官とは、その後、どうなっているのかしら? 申尚宮からの話では、月の美しい夜には、たまにミニョンの姿が殿舎から消えているとか」
「そ、それはそのですね」
 いつもは年上らしく、姉のような立場のミニョンだが、このときばかりは逆転した。ミニョンがホ・ソギョムという若い内官と付き合っていると申尚宮から報告を受けたのは、もう二年前ほどになる。
 忘れもしない四年前、同じ大王大妃殿の女官にオクチョンが池に突き落とされる事件が起きた。当時、オクチョンはまだ一女官にすぎず、ミニョンばかりが虐めに遭うのに憤慨し、抗議したのである。
 そのために恨みを買い、オクチョンは偽の手紙で人気のない池辺に呼び出され、突き落とされたのであった。
 実はミニョンはオクチョンを案じ、その後を追跡していて、ミニョンが急を知らせにいってくれたお陰で、オクチョンはすぐに池から引き上げられた。泳げないオクチョンは時間が経っていたら、確実に溺死していたはずだ。
 ホ内官はその時、ミニョンが救いを求めた人物だった。助けを探していたミニョンとたまたま若い二人組の内官が遭遇、その一人がホ内官だったというわけである。
 以来、ホ内官とミニョンは宮殿内ですれ違えば立ち話するようになり、やがて恋仲になった。
 ホ内官は溺れかけていたオクチョンを池から引き上げ、水を吐かせるなど適切な処置を行った。あと少し応急処置が遅れていたら、オクチョンは助からなかったと医官も断言した。
 いわば、ホ内官はオクチョンの生命の恩人でもある。
 そして、ミニョンは親友であり、今は姉とも頼りにする側近であった。二人にはできるなら幸せになって欲しい。オクチョンは心からミニョンの幸せを願っている。
「隠さないで、ミニョン。私は誰より、あなたの幸せを祈っているの。だから、ホ内官とあなたが結婚して幸せになるというのなら、祝福するわ」
 オクチョンの心からの言葉に、ミニョンは感激したのか、眼を紅くした。
「私のような者に、勿体ないお言葉です。ですが、折角のお心遣い、ありがたく存じますが、私は後宮務めが性にあっているようですゆえ」
「あら、以前は早く辞めたいと言っていたのに?」
 今のミニョンは虐められてばかりいたのが嘘のような変貌ぶりだ。オクチョンが入宮したばかりの頃、ミニョンは無口で動作も遅く、仕事もできなくて失敗ばかりしていた。それが他人から馬鹿にされる原因ともなっていた。
 しかし今や彼女は、この殿舎でも筆頭の女官であり、申尚宮に次いで発言権を持つ有能な人材だ。もう怯えていた小娘ではなく、十代の女官たちに適切な指導をする先輩女官に成長していた。
 昔のことを持ち出され、ミニョンは肩を竦めた。
「そうですね、昔の私でしたら、確かにそう思っていました。でも、今は違います。私は尚宮さまのお陰で生まれ変わったのです」