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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第二巻

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「そうか。であれば、ここなるチャン・オクチョンの聞き間違いであろうな」
 大妃は頷き、冷たい声で断じた。
「して、大妃である私の具合が悪いというのをごり押ししてまで乗り込んで参ったからには、相応の名分があるはずだ。その名分とやらを聞こうではないか」
 オクチョンは大切に運んできた風呂敷包みを文机に置いた。
「こちらを大妃さまに献上致したく、本日は伺いました」
「これは何だ」
 訝るような視線に、オクチョンは自ら萌葱色の包みを解いた。中から現れたのは、チマチョゴリである。チョゴリは紺色、チマはややくすみがかかったピンクだ。ふんわりとひろがるチマは一面に薔薇の花が織り出された高価な絹で仕立て上げられ、浮き出た薔薇に戯れかけるような構図で眼にも鮮やかな蝶が数匹、待っている。蝶は大変手の込んだ刺繍であるが、ひとめ見ればチマに描かれた絵のようにも見える。
 少し抑えた紺色の上衣は地味に見えるものの、襟元、袖口にはチマとお揃いの小さな蝶が並んで刺繍されている。
「大妃さまにお召しいただければ幸いでございます」
 この上下一式を仕立て上げるのに、オクチョンは七日間、不眠不休で針を手にした。嫁と孫をすべて喪ってしまった大妃の傷心をわずかなりとも慰められればとの一心で、オクチョンは心を込めて、ひと針ひと針縫い上げたものだ。 
 仕上がったチマチョゴリを見せた瞬間、ミニョンなどは感嘆の溜息を洩らしたものだった。
―かつて大妃さまが贔屓にされていた繍房の高慢ちきなあの女官など、足下にも寄れない腕前です。
 その言葉を鵜呑みにしているわけでも、自分の針子としての腕を過信しているわけでもない。ただ、愛する男の母への心のこもった贈り物になれば良いと願って仕立て上げたものだった。
 大妃はしばらく黙って文机の上にひろげられた衣服を眺めていた。オクチョンは緊張で身体が強ばるのを感じた。
―少しでも大妃さまが気に入って下されば良いのだけれど。
 だが、そんなささやかな心配をしていた自分がいかに甘く愚かであったか、オクチョンは直に知ることになった。
「確かに」
 大妃は、いかにも気がなさそうに言った。
「仕立ての技術は素晴らしい。そなたの腕はたいしたものだと主上が仰せであった。大方は女に腑抜けた息子の眼が曇っているだけであろうと高を括っていたが、どうやら息子の言葉に偽りはなかったようだ。後宮の繍房・針房にも、これだけの腕を持つお針子はおらぬ」
 言葉とは裏腹に、大妃は眼の前のチマを取り上げ、いきなり力任せに引き裂いた。
「これが私の応えだ」
 先刻までの冷えた声音が嘘のように、大妃は淡々と言った。
「どのように優れた腕を持ち、美しい衣装を仕立て持って参ったとしても、私がそなたの仕立てた衣服を着ることはない」
「どうして―」
 オクチョンは、あまりといえばあまりのなりゆきに声もない。唇を震わせるオクチョンに、大妃は事もなげに言い放った。
「その応えが知りたいか? それは、そなたがチャン・オクチョンだからだ。賤しい身分から承恩尚宮にまで成り上がり、息子の心を?んで自在に操る妖婦。そのような女狐の仕立てた服を私が着ることは未来永劫ない」
 オクチョンの背後に控えるミニョンは端座したまま、主君が受けた屈辱を我が身が受けたかのようにぶるぶると震えていた。今にも大妃に向かって飛びかかっていきそうな勢いに、傍らの申尚宮が眼顔で止めている。
「何をまた企んでおるかは知らぬが、中殿がいなくなった途端、しゃしゃり出ても無駄だ。そなたごときが中殿の代わりになれるとでも?」
 オクチョンは涙ぐんで言った。
「そのような下心は一切ございません。ただ、大妃さまのお心が少しでも軽くなればと願ったのでございます」
 大妃が叫んだ。
「その考えが思い上がっているというのだ! 私の立場を考えみよ。私は中殿と同じ、先王殿下が世子の時代に世子嬪(ひん)として入内し、正妃に立てられた。正室が側妾からの同情を受けて歓ぶとでも思うのか! 少しばかり主上に寵愛されているからと良い気になるでない。懐妊するまで中殿がそなたの存在にどれほど心悩ませたか、気鬱の病になり果てるまで、そなたがあの可哀想な娘を追い詰めたか、そなたは知るまい。中殿は我が姪であり、幼いときから手許で娘同様に育てた嫁であった。その嫁を苦しめ泣かせ続けたそなたを私が許すとでも? 憐れにも早死にした中殿に代わって私がそなたを終生憎み続けてやるわ」
「わ、私」
 オクチョンは堪らず、うつむいた。堪え切れなかった大粒の涙がポトリと床に落ちて染みを作った。
「それとも、喪った公主の代わりに、そなたが主上の御子を産むとでもいうつもりか? 眩しいほどのご寵愛を頂きながら、一向に懐妊もできぬそなたが身ごもる日など来るのか?」
「大妃さま、それはあんまりの仰せにございます」
 自分だって、スンの子を授かりたいと願ってきた。でも、神仏はいまだにオクチョンに大好きな男の子を授けてくれない。
 大妃がオクチョンを睨めつけた。
「万が一、奇跡的にそなたが主上の御子を孕んだとしても、私はけして認めぬ。そなたを嫁とも、生まれた子をも孫とは絶対に認めぬゆえ、それだけは憶えておくが良かろう」
 大妃がまた冷えた声で告げた。
「疾く去れ。そのような目障りな顔はこれ以上、見たくもない。賤しい者ゆえ、眼が穢れそうだ」
 オクチョンは立ち上がった。それでも大妃に向かい、深々と礼をして辞した。どこをどう歩いて殿舎まで戻ったのか判らない。
 両側から申尚宮とミニョンが支えていてくれなければ、とっくに無様に通路で転んでいただろう。
 居室に入るなり、オクチョンはくずおれた。
「尚宮さま」
 申尚宮は、この場にはいない。ミニョンがオクチョンの肩をそっと抱いた。
「大丈夫ですか?」
 大丈夫なはずがない。それでも、オクチョンは健気にも微笑もうとした。主人として仕える者を必要以上に不安がらせてはいけないと思うからだ。
 しかし、ミニョンはオクチョンの心など、お見通しだったらしい。ミニョンの方が声を詰まらせた。
「オクチョン、こんなときまで無理して微笑もうとして」
 どうやら微笑もうとしたのは失敗したようである。
「無理に笑ったから、顔が引きつってる。美人が台無しよ」
 ミニョンの戯れ言めいた物言いに、オクチョンは泣きながら笑った。
「ミニョンったら」
 ミニョンは重たい雰囲気を少しでも和らげようと、わざと軽口を言ったのだ。
 オクチョンの耳奥で、ひと月前、王妃に突きつけられた科白がまざまざと甦った。
―そなたの心配など無用。賤しい者が吾子のことを口にすれば、腹の子まで穢れる。疾く去れ、その目障りな顔を二度と私に見せるでない。
 先刻、大妃から投げつけられた去り際の科白と面白いくらい同じではないか!
 姪が姪なら、叔母も叔母といったところか。
 オクチョンは泣いた。幼いときから、母には
―他人には敬意と誠意をもって接するように。
 そう言われて育ったのだ。母はいつもオクチョンに語り聞かせていた。
―真心をこめて接すれば、いつか必ず理解して貰える日が来る。
 でも、本当に母の言葉は正しいのだろうか。この期に及んで、オクチョンは疑問に思わずにはいられない。