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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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「オクチョン、俺は真面目な話をしようとしているんだぞ?」
「ごめんなさい」
 しゅんとして言えば、スンがよしよしと頭を撫でてくれる。彼の手が触れたのは一瞬なのに、また心ノ臓が煩くなった。
 このままではスンに鼓動が跳ねる音を聞かれてしまうのではないかと彼女が心配げに見上げると、またスンの優しげな眼とぶつかり、オクチョンは真っ赤になり、うつむいた。
「オクチョンは不思議だ。オクチョンの歳は妻と同じなのに、そなたといると、出来の悪い弟ではなくなったような気がする。まるで、聞き分けの悪い妹を相手にしているようだ」
「何ですって?」
 しまった、声が大きすぎたと思ったときには遅かった。
 スンがクスクスと笑いながら言った。
「そういうところが面白い。妻といると正直、息が詰まりそうになって逃げ出したくなるけど、オクチョンだといつまでも一緒にいたいと思うし、時間の経つのを忘れるほど愉しい」
 淑やかな奥方と比べられるのは嬉しくないし、聞き分けの悪い妹というのも歓迎したくないが、彼が一緒にいて愉しいと言ってくれるのは嬉しい。
 顔にますます熱が集まってくる。この分では、夜目にも判るほど真っ赤になっているだろう。恥ずかしさに顔が上げられない彼女には、スンはさりげなく気づかないふりをしてくれた。
「俺がこの垂れ桜を朝鮮国に例えたのは、理由がある、ほら」
 スンの指した方を見れば、様々な色合いが違う花が月明かりに美しく輝いていた。
「一つ一つの花が民だとする。どの花も同じようでいて、一つとして同じ花はない。オクチョン、民も同じだ。それぞれ違う人間がこの朝鮮という国で日々、懸命に生きている。国が健全であれば、民は美しく見事な花を咲かせ、結果として、この大樹のように国も栄えるだろう。そして、国が健やかであるというのは、どういうことか。判るかい?」
 問いかけられ、オクチョンは応えた。
「それがスンの言っていた、民のための国ね」
「そうだ」
 スンは破顔した。
「オクチョンは、やはり賢いな」
 また自然な手つきで髪を撫でられ、オクチョンは咄嗟に下を向いて赤くなった顔を隠した。
「民が暮らしやすい国を作れば、必然的に国は栄える。国は国王や両班のためのものではない。俺がそう思うのは、民を大切にする政をすれば、結局は国も富み栄えるからだよ。二つは車輪の両輪のようなもので、民草を疎かにすれば、いつか国は衰退し滅びる。王が民を労れば、民は王のために働き国はますます栄えるだろう。そのためにも、王は力を持たなければならない。今、朝廷には古参の重臣どもが古狸のように居座って幅をきかせているゆえ、まず、そいつらを一掃だ」
「古狸ねえ」
 オクチョンは笑い、スンを見た。
「幾らスンが高位の両班家の当主でも、まだ若いもの。あなたが王さまならともかく、古参の重臣方を追い出すなんて、できるはずがないわ」
「いや、実のところ、オクチョン。先代の王さまから仕えてきた重臣たちを追い出すのは、若い王でも難しい。何しろ王の生母である大妃(テービ)さまは朝廷でも権力を握っているキム氏一族の出だ。おまけに中殿もキム氏で、王の周囲は外戚という名を借りた重臣どもが取り巻いている」
「お若い国王さまを血の繋がりという鎖で縛り付けようとしている?」
 スンが眉を動かした。
「ホホウ、オクチョンは政治が判るのか?」
 その言葉に、オクチョンは笑った。
「まさか、そんな難しいこと、私には判らないわ。でも、スンの話を聞いていると、ふと、そうじゃないかなと思っただけ」
「加えて、朝廷は西人(ソイン)と南人(ナミン)という二つの勢力に分かれ、互いにどちらが主導権を握るかをあい争っている有様だ。このような状態で、民の暮らし易い国を作れるはずがない」
「王さまも大変なのね。私はただ宮殿の奥深くでご馳走でも食べていれば良いんだと思っていたけど」
 オクチョンが笑うと、スンは本気で怒ったように言った。
「そんな暮らしをしていたら、幾ら若くても、国王はぶくぶくと太った醜い男になってしまう。オクチョンは、そんな男が良いのか?」
「どうして? スンは背が高くて、すらりとしているし、とても綺麗で素敵―」
 言いかけて、オクチョンは耳まで真っ赤になった。
「どうして、王さまの話で、あなたのことが出てくるの? 恥ずかしいから、これ以上言わせないで」
 そのときだった。風もないのに、しだれ桜の枝がさわさわと揺れた。弾みで薄紅色の花びらがはらはらと散り零れる。
 月が放つ光が細やかな粒子となり、光の粒を浴びた花びらが一斉に煌めいた。
 スンがつと手を伸ばし、彼女の漆黒の髪に触れる。
「オクチョン」
 うつむくオクチョンの髪から、ひとひらの花びらをつまみ上げ、スンは真剣な声音で告げた。
「また、逢えるだろうか」
 オクチョンは黙って首を振った。
「何故?」
 優しい声音に、また泣きたくなる。その腕に身を投げ出して、?また逢いたい?と縋りたくなる。
 彼女は涙を堪えて、彼を見上げた。
「私もあなたといられて、愉しかったわ、スン。まだ逢ったのは二度めなのに、色んな話をしたわね。男の人って、女が政治について話すと嫌な顔をするのに、あなたは真剣に私の話を聞いてくれたもの。そんな男は、今まで私の側にいなかった」
 でも、と、彼女は洟をすすった。
「いやね、あなたには最後に綺麗な私を憶えていて欲しいのに、恰好悪い。鼻水を啜る女なんて」
 スンがさりげなく渡してくれた手巾で、オクチョンは盛大に洟をかんだ。どうにも涙の別離にはふさわしからぬ音である。
 オクチョンは涙ぐんで笑った。
「オクチョン、私はそなたにもう一度逢いたいのだ。そなたが望むなら、屋敷に迎えても―」
 スンの言葉に覆い被せるように、オクチョンは言った。
「奥方さまと幸せになって。あなたと私では、住む世界があまりに違いすぎる。いつか私にも分相応な男が現れると思うの。私は、その男と生きていくわ。私は大勢の中の一人はいや。好きになった男に私だけを見て欲しいから、きっと、あなたの側にいても幸せになれないし、あなたも不幸にしてしまうでしょう」
 それに、と、オクチョンは無理に作った微笑みで告げた。
「あなたが私に言ったのよ、私たちは友達だって。良いこと、スン、友達というのは色恋抜きの関係なのは、あなたも判っているでしょう」
「判ったよ、今日のところは俺も男だ、潔く引き下がろう」
 スンもまた泣き笑いのような表情で言う。
「あなたと出会えて良かった。今夜のことは忘れない」
「ああ、俺もだ」
 スンの笑顔に見送られ、オクチョンは踵を返した。
 二度と振り返らないと決めていた。振り返ったら、きっと後戻りできなくなってしまう。彼の腕に飛び込んで、
―あなたのお屋敷に連れていって。
 と、後先も顧みず頼んでしまう。
 けれど、彼女は判っていた。自分は大勢の女たちの中で大人しく彼の訪れを待っていられるような人間ではない。きっと、その中には彼が大切にする奥方にも妬みどころか憎しみを抱くようになるだろう。
 そんな人間には断じてなりたくない。彼のように心から愛せる男とこの先出会えるかどうかは判らないけれど、少なくとも、妻ひとりを愛してくれる誠実な男はいるはず。