炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻
いちばん大好きな男の奥さんにはなれなくても、心で想うだけなら誰も傷つかない。だから、私はこれで良い。いつか私だけを見てくれる男の妻になれば、一生心穏やかに過ごせるだろう。たとえ、その男が生涯で二番目、三番目に好きな男だとしても。
オクチョンは泣きながら走った。遣いに出された帰り道で寄り道をして、屋敷に戻れば伯母にどれだけ叱られるか。そのときは考えるゆとりすら、なかった。
スンから借りた手巾をそのまま持ち帰ってしまったことに気づいたのは、既に屋敷に戻った後である。案の定、伯母からは厳しい叱責を受け、罰として夜と翌朝の食事は抜きにされた。それでも、いつものように落ち込まなかったのは、やはりスンと過ごしたひとときの余韻に浸っていたからだ。
一方、その場に取り残されたスンは、しばらく惚(ほう)けたように前方を見つめていた。
幾ら眼をこらしても、あの少女はもういない。ある日、風のように現れ、そして今宵、満月の下で咲き誇るこの桜の花びらのように儚く消え去った。
スンは煌々と輝く月を見上げ、長い吐息をはき出した。今宵は月が随分と近い。
蒼ざめた月の表面に刻み込まれた文様まで、克明に見て取れるようだ。彼は手のひらをゆっくりと開いた。桜貝のような花びらが一枚、大きな手のひらにチョコンと乗っている。
まるで、オクチョンのようだ、と、彼は一人で微笑んだ。気まぐれに現れ、また風に舞い流される花びらのようにいなくなる。正義感と負けん気が強く、困っている人がいれば身の危険も考えず燃え盛る炎にも飛び込んでゆくような娘。
その癖、涙もろくて、泣いたり怒ったりと忙しい。彼女が二つも年上だというのが信じられない。
また、逢えるだろうか。
この花びらはオクチョンの髪に舞い降りていたものだ。スンは花びらを袖から取り出したもう一枚の清潔な手巾に包み、また宝物のようにしまいこんだ。
オクチョンに渡した手巾は彼女が持っていったが、構いはしない。いや、むしろ、彼女に持っていて欲しい。彼女が自分の手巾を持っている限り、自分たちの縁はまだ切れてはいないのだと信じられる。
自分は、男の癖に、何と女々しいヤツだろう。自身で呆れながらも、オクチョンとの出逢いを片々たりとも後悔はしなかった。むしろ、星の数ほどの人間が暮らすのこの都で、彼女とめぐり会えた奇跡を神仏に感謝する。
一陣の風が彼の側を駆け抜ける。さわさわと花盛りの枝を揺らす音は何故か、彼の心を妖しくざわめかせた。
愛する男の正体〜再会〜
どこかで女のすすり泣きが聞こえたような気がして、オクチョンは振り向いた。しかし、周囲には人影もない。
「気のせいよね」
独りごち、彼女は立ち上がった。今、彼女は長い廊下をせっせと拭いている最中である。
半月前―スンとひとときの逢瀬を楽しんだ夜を境に、オクチョンの運命は激変した。伯母の風当たりが以前にも増して強くなったのである。遣いに出された帰りに油を売っていたのが、よほど気に入らなかったらしい。
しかも、たまたまオクチョンとスンが花見をしていたのを見かけたのが伯母の知人だったことから、早速、ご注進に及んだ。
―小娘の癖に、今から両班の若さまを誑かすとは、やはり母親に似て根っからのあばずれだね。血は争えないものだ。
口汚く自分ばかりか母まで罵ろうとするので、オクチョンは
―私は何と言われても構いませんが、母のことまで悪くおっしゃるのは止めて下さい。
大好きな母を貶められ、我慢できず食ってかかった。挙げ句、生意気だと伯母から両頬を打たれた。
事後、母は泣きながらオクチョンの腫れた両頬を撫でた。
―私のことは何と言われても良いのだから、今後、二度と奥さまに逆らってはならないよ。
母を安心させるために、オクチョンもやむなく頷いて見せたのだけれど。
その後も何かにつけてはオクチョンに強く当たり、ついには伯母の言いつけで縫い上げた晴れ着を気に入らないのひと言で、眼前で破り棄てた。
それには流石に辛抱できず、オクチョンが抗議すれば、
―お前は使用人の癖に口答えするのか!
激高して、鞭で打ち据えようとさえした。たまたま伯父がこの時、帰宅したのが幸いした。庭先に引き据えられ、座らされていたオクチョンに向かい、伯母が今にも鞭を振り上げようとしているところを伯父が目撃したのだ。
姪を可愛がっている伯父は、伯母のオクチョンに対する酷い仕打ちを遅まきながら初めて知った。姪ではなく使用人として扱っていることも聞き、オクチョンの身柄を別の場所に移すことに決めた。
伯父の知人の仲立ちで、オクチョンは奉公に出ることになった。それも、ただの奉公ではない、宮仕えだ。言わずもがな、宮仕えとは王宮に出仕することである。
女官になるには身元調査と簡単な試験があるものの、これは間に立った人が確かだったので、あるようでないものだった。
オクチョンが最初に配備されたのは、大王大妃(テーワンテービ)の暮らす殿舎である。大王大妃というのは、四代前の国王仁祖の継室、つまりは後妻に入った荘烈王后(チヤンニヨルワンフ)(慈懿大妃)だ。この方は極めて淋しい身の上で、若くして父親のような年上の老王の後妻に入ったものの、子どもにも恵まれなかった。
立場的には王室の最長老ということで重んじられてはいるが、実のところ、王室で幅をきかしているのは現国王粛宗(スクチヨン)の生母明聖大妃に他ならない。
荘烈王后は現在、与えられた殿舎で限られた使用人たちとひっそりと暮らしていた。立場的には四代前の王妃にして、現国王の曾祖母に当たる人でありながら、うち捨てられた花のごとき暮らしぶりがオクチョンは気の毒でならない。
もちろん、入宮したての新入り、しかも下っ端の自分が口を出せるものではないことも判っている。だが、元々、正義感の強い彼女は荘烈王后が皆から軽んじられているのが我慢ならず、荘烈王妃の逼塞した暮らしぶりを見るにつけ、義憤に駆られていた。
荘烈王妃はオクチョンの新しい女主人であった。使用人は主君に忠義を尽くすのは当然だ。そして、その主君が王宮の片隅に追いやられ、物陰では?王室の厄介者?と嘲笑(あざわらわ)れているのも、すべては明聖大妃のせいだと知っている。
明聖大妃は朝廷一の実力者キム氏の出身であることを鼻にかけ、姑的立場の荘烈王后を完全に蔑ろにしている。明聖大妃の大妃殿では大妃に仕える尚宮でさえもが王族のように威張り散らし、平気で荘烈王后を?邪魔な年寄り?と公言しているという。
そんな嘆かわしい噂を聞く度に、オクチョンは明聖大妃に対する印象が悪くなっていくのは、いかんともしがたかった。更に、大妃は我が子である国王を意のままに動かし、国王が大妃の意向に逆らうと、その場に失神したふりをして、息子を言うなりに操る。
そんなある日のこと、オクチョンは大王大妃殿の殿舎という殿舎を片っ端から掃除して回っていた。まだ入宮して十日も経ぬ頃のことである。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻 作家名:東 めぐみ