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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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「まさか、私にはあまりにも遠い世界の出来事だから、考えたこともないわよ。でもね、スン。私は王妃という地位や立場が欲しいなんて思ったことは一度もないの。だって、王妃さまが幸せかどうかなんて、誰にも判らないでしょう。幾ら贅沢ができて、たくさんの宝玉を持っていても、それだけで幸せかどうか判らないわ。私は大勢の女の人と良人の愛を分け合うのはいやよ。だから、もし、私の愛する男が王さまだとしたら、王妃になりたいと願うかもしれないわ」
「王妃の立場が欲しくないのに、何故、王妃になりたいんだ?」
 訳がわからないといったスンに、オクチョンは微笑んだ。
「スン、女は誰でも好きな男にとって、たった一人の女でありたいと願うものよ。王さまにとって唯一の存在になるためには、王妃になるしかないでしょう。だから、そう言ったの。だけど、そんなことは空にあるあの月が落ちてくるのと同じくらい、あり得ないことだわ。こんな町中にいる隷民の娘が宮殿におわす王さまに出逢うはずもないものね」
「そう、だな」
 スンは呟き、また物想いに耽っているようだ。オクチョンはその場に満ちた重苦しい雰囲気を変えたくて、明るい声を出した。
「ね、私の話ばかりではなくて、スンの話も聞かせて」
「オクチョンは俺の何を聞きたいんだ?」
「色々よ」
 笑いながら言うと、スンもまたつられたように笑顔になった。  
「オクチョンは聞き上手だな。いや、優しいと言った方が良いかもしれない」
「私が優しい?」
「うん、あの大火事の時、自分の身の危険など考えもせず火の中に飛び込んでいこうとしたし、それに、こいつもそなたの優しさのお陰で生命拾いしたクチだ」
 スンは傍らに置いた竹籠を示した。鶏の?シムチョン?は、あれほどの大騒動を起こしたのが嘘のように澄まして鳥籠に収まっている。
「しかし、シムチョンは丸丸とよく肥えているな。チゲの具にしたら、美味しそうだぞ」
「酷い。シムチョンは食べないと約束してくれたのに、約束を破るつもり?」
 オクチョンが憤慨して言うのに、スンはクックツと喉を鳴らして笑っている。からかわれたのだと気づいたのは、しばらく経ってからである。
「もう、人をからかって、虐めて愉しい? スンって綺麗な顔の割に性格がねじ曲がってるのね」
「なるほど、俺の性格はねじ曲がっているのか、そんなことを言われたのは初めてだ」
 スンは妙なことで感動している。
「変な人ね」
 彼女はスンを珍獣でも見るような眼で見た。彼女はまた小さく咳払いした。
「スンの方こそ、綺麗な両班家のお嬢さまと婚約しているのでしょう?」
 いちばん訊きたくなかったけれど、やはり訊かずにはいられなかった。
「―」
 スンはしばらく無言だったが、やがて、オクチョンを静かに見た。また、あの瞳だ。何を考えているか知れない奥底の見えない瞳、怖いくらい綺麗だけれど、その反面、彼の心が見えなくて本物の恐怖を感じてしまう。
「俺には婚約者はいない」
 ホッとしたのも束の間、次なる台詞はオクチョンを一撃で打ちのめすには十分であった。
「妻がいる」
「奥さん? その若さで、奥方さまがいるの?」
 悲鳴に近い声を上げ、慌てて両手で口を覆った。
「両班家では、俺の歳で妻帯するのは早すぎることはない。ごく普通だよ」
 淡々と言うスンの横顔はどこまでも落ち着いている。
「それもそうね」
 オクチョンは納得した。確かに十五歳といえば、妻を娶っておかしくはない。殊に高位の両班家になればなるほど、跡継ぎを残すために早婚になるのは自然なことだ。
 オクチョンは落胆が顔に出ないようにするのが精一杯だった。
―私は彼の?いちばん?にはなれないのね。
 別に、スンの奥さんになりたいと願ったわけではない。彼に言ったように、奴婢である自分と両班の子息らしいスンでは土台、住む世界が最初から違う。
 きっと彼との出逢いは神さまが自分を憐れんで、一刻だけ見せてくれた幸せな夢なのだ。夢は、いつか覚めるときが来る。
 自分の心の動揺を知られたくなくて、オクチョンはわざと弾んだ声音を作った。
「奥方さまは、どんな方?」
「妻の話はしたくない」
 スンがぶっきらぼうに言った。大人びているとはいえ、時に子どもっぽい顔も見せる彼が?妻?と口にするのは、どこかおかしいようでもある。けれど、オクチョンは彼に?妻?と呼ばれる顔も知らない女性に、どこかで少しだけ羨望を感じずにはいられなかった。
「じゃあ、お母さまは?」
 いつかスンに母のための晴れ着を仕立てて欲しいと頼まれた。けれど、そんな日は永久に来ないだろうことも判っている。
「母は何かと口うるさい」
 スンは年頃の少年らしい口調でさらりと言った。オクチョンは笑った。
「それは仕方ないでしょうね。お母さまはスンのことが心配というか、大切で仕方ないと思っていらっしゃるでしょうから」
「ついでに、妻も口うるさい。二人揃うと、煩いのが二倍どころか三倍になる。ゆえに、二人揃っている時、俺は近づかぬようにしている」
「―」
 オクチョンは何故か、泣きたくなった。?妻?の話はしたくないと言いながらも、やっぱり彼は夫人について話している。?妻?、それは彼にとって特別なただ一人の女なのだ。
―スン、あなたは先ほど私に王妃になりたいかどうか訊いたわね。私は王妃さまになりたいと願ったことなど一度もないけれど、あなたの奥さんにならなりたいと今、思っているわ。こんな願いは分不相応で棄てるべきなのに、あなたが奥方さまの話をする度に、心が針で刺したように痛むの。
 それは、けして口にしてはならぬ言葉だ。
「でも、口ではうるさいと言いながら、愉しそうよ、スン」
 泣き出したいのを堪えて言えば、スンも笑顔で言った。
「俺と妻は従姉弟同士なんだ。妻は母の姪に当たる人でね。だから幼いときから顔見知りだし、あまり妻という感覚はない。俺は母にも妻にもいまだに頭が上がらないし、母は俺たち夫婦を見て?厳しい姉と出来の悪い弟のようだ?とよく言っているよ」
 止めて、と叫びたかった。そんなに嬉しそうに愉しそうに奥方や家庭の話をしないで欲しい。心は泣いていたけれど、オクチョンは涙の塊を飲み下し、微笑んだ。
「お父さまは、どうしていらっしゃるの? さぞかし朝廷では力を持つ重臣でいらっしゃるのでしょう」
 スンが溜息をついた。
「二年前に亡くなった。まだ若い盛りだった。その後、俺が家門を継いで、今に至っている」
「二年前といえば、あなたはまだ十三なのに、大変だったわね」
 これは本音だった。十三歳といえば、まだまだ親に甘え外を駆け回りたい年頃なのに、スンはもうその年で重責を背負ったという。
 そんな彼に、かける言葉が見あたらない。
 スンは笑って首を振った。
「俺は父にとって、ただ一人の男子ゆえ、仕方ないことだ。オクチョン、あの花を見て、俺はこの朝鮮国を思っていた」
「花? 桜がこの国なの」
 ああ、と、スンは思慮深げな瞳を咲き誇る桜に向けた。
「見てご覧」
 言われるままにもう一度、桜を見上げれば、花また花が頭上を覆っている。その合間から、ふっくらとした月が静謐な光を放っていた。
「あの月って、蒸し饅頭みたい」
 思ったままを口にすると、スンが吹き出した。