炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻
何気ないスンのひと言に、オクチョンはハッと顔を上げた。彼の黒瞳が真っすぐに自分を見つめている。
心の奥底まで射貫くような強いまなざしに、何故か心が高鳴る。同時にまた、彼の顔を見るのではなかったという悔いにも似た気持ちがわき上がっていた。
スンの視線は限りなく静謐であった。あたかも綺麗だけれども底が見えない海のようにとりとめもなく、彼女はスンの考えていることが少しも判らない。
それでいて、じいっと見つめていると、深い海の底に魂を奪われてしまいそうで、彼の深い瞳に溺れそうになる。
「少しだけ、なら」
命じられたわけでもないのに、気が付けば、オクチョンはそう応えていた。いや、何より彼女自身もスンともっと共にいたいと望んでいたのだ。
二人がたまたま行き当たったのは、町外れの四つ辻であった。辻といえども、続く道は四方とも路地裏に続く小道で、この時間、人通りは殆ど無い。
四つ辻はちょっとした広さがあり、広場のような様相を呈している。右側に小体な酒場らしきような建物があるが、生憎と今日は休みらしい。二階家になった建物は四方、きっちりと板戸が閉てられている。
広場の中程に簡素な囲いで囲われ、桜が植わっていた。明らかに人の手になるものだ。かなりの樹齢らしく、巨きな桜は今、薄紅色の花を重たげにたっぷりとつけている。薄紅といっても、一つとして同じ色はない。どの花も微妙に濃淡が違い、中には眼を惹くほど鮮やかな紅に染まった花もある。
垂れ桜で、流れるような枝が幾重にも重なるようにしなり、そこに無数の花がついているのであった。
オクチョンは見事な花の光景にしばし眼を奪われていた。コホンと咳払いが間近で聞こえ、慌てて我に返る、
「ご、ごめんなさい」
オクチョンは頬を染めた。
「町中にこんな場所があるなんて、知らなかった」
「なかなかだろう? 俺も去年の春、初めて見つけたんだ」
スンは得意げに鼻をうごめかす。まるで親に褒めて貰いたい子どものような表情に、オクチョンは気になっていたことを訊ねてみた。
「スンは幾つなの?」
「俺?」
彼は意外そうに眼をまたたかせた。
「十五だ」
今度は、オクチョンが愕く番だった。
「十五歳ですって? じゃあ、私の方が年上なのね」
スンが綺麗に弧を描く眉を跳ね上げた、
「オクチョンは幾つなんだ?」
「十七よ」
「何だ、たいして変わらないじゃないか」
オクチョンは小さく咳払いした。
「あのね、殿方にとってはたいしたことじゃないかもしれないけど、女にとっては大切なことなのよ」
「どうして?」
「それは」
本当に意味が判らないといった表情のスンに、彼女は説明する気になれない。第一、
―それでは釣り合いが取れないでしょう。
と言えるはずもない。元々、両班の子息と隷民の娘では釣り合いも何もないのだから。今、こうして彼と過ごす時間は彼女にとっては夢のようなもの。夢が終われば、スンも彼女も別々の世界へと帰ってゆかねばならない。
黙り込んだオクチョンに、スンは屈託なく言った。
「つまらないことを気にするな。俺はオクチョンが年上かどうかなど、気にしない」
スンは紙袋から蒸し饅頭を取り出し、おもむろに差し出す。
「知っているか? 空腹だと人間はろくでもないことを考える生きものなんだ。昔の諺でもよく言うだろ、腹が減っては戦ができぬって」
四角くに囲われた桜の側には、簡素な丸太の長椅子が置かれている。おおかた、花見のためのものであろう。スンが先に腰掛け、自分の隣を手で叩いた。
少し迷い、オクチョンは適度な空間を空けて、彼の隣に座った。スンから差し出された蒸し饅頭を受け取り、オクチョンはひと口かじった。
「美味しい」
「だろう? あの店の蒸し饅頭はいけるんだよ」
スンはオクチョンが半分も食べない中に、もう丸一個を平らげていた。やはり、若いから、食欲旺盛なのだ。
「あの桜」
オクチョンは頭上を振り仰いだ。いつのまにか空はもう黄昏の色から宵闇に塗り替えられていた。淡い菫色に染まった空に月が昇っている。
無数の桜花をつけたしだれ桜が頭上にひろがり、さながら花の天蓋の下にいるようだ。月光に照らされた花たちは螺鈿細工のように雲母(きらら)に光っている。花と花の間から、丸い月が垣間見えた。
「花が隙間なく咲いているから、折角の満月が見えないわね」
オクチョンは笑った。
「まるで花の天蓋みたい。王さまと王妃さまが婚礼のときに使う天蓋よりも、この天蓋の方がきっと立派よ」
刹那、スンの美麗な顔がさっと翳った。
オクチョンは息を呑んだ。
「ごめんなさい。私、何か良くないことを言ったのね」
「いや」
スンは小さく首を振り、何事か思案に耽るような顔になった。
やはり、何か彼の気に障ることを言ってしまったのだ。オクチョンは自分の迂闊さに歯がみした。スンと二度と逢えないのなら、この夢のような時間に水を差すことなど言うべきではなかったのだ。けれど、何故、彼がそこまで先刻の話に反応するのか解せない。
沈黙が二人の間に漂った。することもないので、オクチョンは蒸し饅頭を食べ続け、あらかた食べ終わった頃、スンが重い空気を破った。
「オクチョンは誰か決まった男はいるのか?」
予期せぬ話の展開に、彼女は眼を見開いた。
「まさか。奴婢の娘にそうそう求婚してくれる男はいないわ」
「奴婢―。そなたの生まれた張氏というのは、どのような家門なのだ?」
スンが心底知りたそうな様子だったので、オクチョンは説明した。
「代々通訳官をしているの。私の祖父も父も通訳官だった。父は私が十歳のときに亡くなり、今は私の母と兄の三人が伯父の世話になっているわ」
「通訳官といえば、隷民ではない」
オクチョンは寂しげに笑った。
「そうね、確かに父は奴婢ではなかったけれど、母が奴婢だから、私もそうなのよ。仕方ないことだわ、運命は変えられないもの」
オクチョンは溜息を一つつき、また空を見上げた。丸い月が相変わらず静かに彼女を見つめている。
「父も伯父も正妻の他に、側妾を持っていた。母は前の奥さんの死後、正妻に直しては貰ったけどね。正妻ではない女性から生まれた子は皆、庶子として扱われるのに、何故、男の人は平気で妻以外の女性を側に置くのかしら。側妾も庶子も、この国ではどれだけ惨い扱いを受けるか分かり切っているのにね」
「それは、仕方ないことだ。一人の男が持てる妻は一人と決まっている」
まだ少年の面影を残すスンから出た衝撃的な言葉に、オクチョンは息を呑んだ。
「そうね、王さまだって持てる妻はたった一人。この国の至高のお方だって、奥さんは一人しか持てなくて、後は皆、側室になってしまうんだものね。隷民だけじゃないわ、高貴な王妃さまだって、女は皆、憐れな立場なのね。王妃さまといえば、この国の女人として、最も尊い敬われるべきお方じゃない? そんなやんごとなき方でさえ、女の悲哀からは逃れられないのよ」
スンがポツリと言った。
「オクチョンは王妃になりたいと思うか?」
その問いには、彼女は笑い出した。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻 作家名:東 めぐみ