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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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 だが、オクチョンはそんなことで怯んではいなかった。大男が威嚇するように睥睨してくると、対抗するかのように両脚を開いて立ち腰に手を当てて男を睨みつける。
 大男の前では、七歳ほどの男の子が泣いていた。
「どうしたもこうしたもねえよ。このくそガキは俺の店の蒸し饅頭をくすねていきやがったのさ。それも今日が初めてじゃねえ、これで三度めだぜ、今日という今日は我慢ならねえ」
 オクチョンはしゃがみ込み、子どもと同じ眼線になった。
「僕、名前は何ていうの?」
「チルボク」
「そう、言い名前ね」
 彼女は子どもの頭を撫で、優しく言い聞かせるように言った。
「他人さまのものを黙って取って食べるのは、悪い人のすることなのよ。泥棒って、知ってるわよね」
 子どもの大きな頭がこっくりした。
「チルボクのしたことは、泥棒と同じ。でも、何か理由があったんでしょ?」
 優しく問われ、チルボクが泣き出した。
「母ちゃんが死んだんだ。妹が二人いたんだけど、いちばん下の妹も死んじまった。何か食べさせてやらなきゃ、たった一人残った妹も死んじまうよ」
 オクチョンは頷いた。
「判った。あなたは盗みたくて盗んだんじゃなくて、妹に食べさせてあげたくて取ったのね」
 彼女はまた袖から巾着を出した。中から銭を出そうとして、溜息をついた。
「シムチョンを買ったから、お金が足りないわ」
 すかさずスンが言った。
「俺が払うから」
 彼はオクチョンと大男の前に進み出た。
「その子どもの取った饅頭の代金は俺が支払おう」
 更に、彼は十個分の代金を払った。スンは八個の饅頭の入った袋をチルボクに渡した。
「良いか、もう二度と盗みなどするのではないぞ」
 彼が蒸し饅頭だけでなく自分の空色の巾着をチルボクに持たせると、幼い少年は何度も頭を下げて走り去り、人混みに紛れて消えた。
「今日は色々とごめんなさい」
 チルボクが見えなくなったところで、オクチョンは言った。
「どうして?」
 オクチョンが儚げに微笑んだ。その横顔のあまりの儚さに、スンが一瞬、胸をつかれたような表情をしたことに彼女自身は気づかない。
「スンは、こういうのはあまり好きではないのではないかと思って」
「こういうのとは?」
 更に問われ、オクチョンはうつむき足下の小石を所在なげに蹴った。彼女の履いているのは両班の令嬢が普通にはくような絹製ではなく、草鞋だった。
「逃げ出した鶏を追いかけたり、饅頭を盗もうとした子どもを助けたり。何かと騒がしかったでしょう。おまけにシムチョンをお屋敷で飼って貰うことになったし、チルボクに蒸し饅頭を買ってあげることになったわ」
 オクチョンは小さく首を振った。
「こういう騒がしいのは、両班の若さまは慣れてないでしょ」
 スンから、しばらく言葉はなかった。やはり、愛想を尽かされてしまったのかと、オクチョンが哀しい想いで彼を見た時、こちらを見つめていたのは先刻までと変わらない優しい微笑だった。
 いや、彼女にはその微笑みは以前にも増して優しいものに―慈しみさえ感じられた。もっとも、出逢ってまもない自分に彼が慈愛の表情など浮かべるはずもないし、それは都合の良い勘違いにすぎないと思った。
「そうだな、今の俺の気持ちをオクチョンに上手く伝えるのは難しい。オクチョン、俺は都の下町にちょくちょく来るんだよ」
「だから、あの火事のときもあそこにいたのね」
「そう」
 スンは思慮深げな瞳で頷いた。
「俺は下町の賑わいが好きだ。自分は両班に生まれたけど、本当はこういう活気溢れる下町の雰囲気の方が性にあっていると思う。今日も愉しかった」
「愉しかった?」
「うん、本当に愉しかったよ。そなたといると、途方もないことが次々に起こる。ノリゲを贈ったら、嬉しいと泣き出し、次には逃げ出した鶏と追いかけっこをし、しまいは盗みを働こうとした幼い子どもを助けた。どれもオクチョンらしいと思った」
 オクチョンは笑った。
「何だか褒められているのかどうか判らないけどね」
「褒めているんだ」
 スンはそのときだけは表情を引き締めた。
「俺は町の人が生き生きと生活しているのを見るのが好きで、よく下町に来る。屋敷でじっとしているより、自分で身体を動かして都のありようを確かめる方がよほど良い。さりながら、今日、オクチョンが見せてくれたのは都の陰の部分だ」
「陰の部分」
 彼女がスンの言葉をなぞると、スンは頷いた。
「下町の賑わいだけを見れば、この国は一見、繁栄の一途を辿っているように見える。でも、現実にはチルボクのように、その日食べるものにも事欠いてやむなく盗みを働く子どももいる。それが、この朝鮮の現実なんだ」
「スン―」
 何故か、スンの顔色は冴えなかった。オクチョンが何か言おうと口を開く前に、彼は続けた。
「俺は民が暮らしやすい国を作りたい」
 その言葉に、オクチョンは息を呑んだ。
「国は民があってこそ成り立つものだ。オクチョン、俺はチルボクだけじゃない、他にも盗みを働いた子どもを何度も見た。中には役所に突き出された挙げ句、罰としてむち打たれて息絶えて亡骸になった子どもまでいた」
「そんな―」
 言葉もないオクチョンに、スンはやるせない表情で言った。
「この国をそんな風にして民を苦しめているのは、すべて俺のせいだ。だから、一日も早く民が安心して暮らせる国にしたい」
「スンのお家はきっと丞相や判書を輩出するような立派なお家柄なんでしょうね。スンもいずれはそんな方々の跡を継いで国政に携わっていくのね。スン、あなたの志はとても尊いものよ。あなたのように上に立つ人が民を労る心を忘れない限り、この国はきっと大丈夫」
「本当に、そうなんだろうか」
 先ほどまでの確固とした口調とは裏腹に、どこか自信なさげな声に、オクチョンは大きく頷いた。
「だって、あなたはこの国の―民の現実をちゃんと知っていて、どうにかしなければと思っているのだもの。だから、大丈夫だと思うの」
 スンが漸く笑顔になった。
「何だかオクチョンが大丈夫と言えば、本当にそんな気がしてきた。不思議だな。そなたに笑顔で大丈夫だからと言われたら、何とかなりそうな自信が持てるよ」
 その刹那、こみ上げてきた想いを何と表現したら良いのだろう。
 スンには、いつでも笑顔でいて欲しい。綺麗な彼の顔が曇り空の満月のように雲に閉ざされているのは見たくない。彼には、いつだって笑顔でいて欲しいのだ、そして、その深くて澄んだ瞳で自分だけを見つめていて欲しい。
 ああ、私は彼を好きなのだ。
 オクチョンは、はっきりとスンへとの想いを悟った。民の安心して暮らせる国を作りたい―、自らの夢を語るスンの顔は若々しく希望に輝いている。
 この時、オクチョンはスンが思っていたよりもかなり若いのではないかと気づいた。最初は自分より少し年上か同じほどだと思ったのだけれど、こうしてよくよく間近で見れば、彼は二十歳は過ぎていないように見える。
 やがて二人は、いつしか下町の外れまで来ていた。長い春の陽もすっかり傾き、空は知らぬ間に茜色に染まりつつある。
「そろそろ帰らなくては」
 オクチョンは空を恨めしげに見上げた。
「もう少しくらいなら、構わないだろう」