炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻
オクチョンの思惑はスンにも通じたらしく、彼は笑顔で続けた。
「大丈夫だ。俺の母上は気難しいところはあるが、身分だけで人を判断されるような方ではない。それに年を取っていても、女人というのは美しいものに眼がないであろう? きっと母上もそなたの作った美麗な衣装なら気に入るに違いない」
歳を取っていてものところだけは余計だと叱られそうだけどな。
スンはそう言って愉快そうに笑った。
オクチョンは気になっていることを口にしてみる。
「スンは私が仕立てた衣服を見たことがないのに、何故、美麗だと褒めてくれるの?」
スンは当然のように言った。
「オクチョンは心が美しいし、優しいし、嘘は言わない。ゆえに、そなたの作ったものは間違いなく美麗なものだろうと思っただけだ。人の内面というのは自ずから外に出るものだ。ましてや、仕立物となれば縫い上げた者の心映えが少なからず出るのではないか」
「私の心が綺麗」
オクチョンはまた何も言えなくなった。自分はそんな風に言って貰えるような人間ではないのに、スンは何故か知り合ってまもない自分を全面的に信用してくれているようだ。
しかも、そこに紅吊舟のノリゲを差し出されたものだから、余計に涙腺が緩んでしまったらしい。ノリゲは紅吊舟の花が無数に咲いているところを表現したらしく、何個かの小さな花が群れている。その一つ一つに小さい紅玉が使われていて、下には濃淡のある薄紅に染めた長い房飾りがついている。
町の小間物屋で扱っているにしては高価なものだ。
「ありがとう、宝物にします」
オクチョンは紅吊舟のノリゲを押し頂くと、堪え切れず大粒の涙をこぼした。
「参ったな、俺は今日、オクチョンを泣かせてばかりだ」
「ごめんな―さい」
オクチョンが泣きながら眼尻に溜まった涙を人差し指で拭う。スンは傍らでそれを眩しげに見つめていた。
そのときだった。二人の前をけたたましい啼き声を上げながら、鶏が駆けていった。
「待て、待ってくれ」
その後から、まだ若い二十代前半とおぼしき男が喚きつつ追いかけている。鶏はもちろん所構わず体当たりし、愕いた八百屋が露台をもろにひっくり返し、たくさんの野菜が道に転がった。転がった野菜に躓いた通行人が今度は派手に転び、悪態をついている。
「何事だ、今畜生」
その間も鶏はすばしこく逃げ回り、捕まりそうもない。あちこちで悲鳴や怒声が響き渡り、被害は大きくなっていっている。雑炊屋の女将は良い匂いの立ち上る大鍋をひっくり返され、悲鳴を上げた。
スンが薬草を売っているらしい初老の男に声をかけた。
「ご主人(オルシン)、あの鶏を追いかけているのは鶏肉屋か?」
「へえ、さようでございます。あいつのところの鶏はどいつもこいつも威勢の良いヤツらばかりなもんで、あいつはいつもああやって鶏を追いかけては迷惑な騒ぎを起こしてますよ」
「なるほど」
笑いながら頷いたスンがギョッとなった。その視線が釘付けになった先に、オクチョンの姿があった。オクチョンは今日も清潔なチマチョゴリを纏っているが、やはり上物ではない。それでも明るい桜色のチマが雪のような肌に映えてオクチョンの美しさを引き立てている。
今、彼女はそのチマの裾を惜しげもなく端折り一つにして持つと、全速力で鶏を追いかけていた。
「待て〜、待ちなさい」
オクチョンの動きは鶏よりわずかに速かった。まばたきをするほどの間に、彼女は誰もが捕まえられなかった鶏をまんまと捕まえていた。ただし、何としてでも捕まえようと飛びついたのが祟って、彼女は道端に無数に転がる野菜の山に突っ込む羽目になった。
「良いこと、どうせ食べられる運命にあるんだから、諦めなきゃ駄目よ」
オクチョンは捕まえた鶏に大まじめな顔で説教した。その傍らでスンは笑いをかみ殺している。
だが。しばらく後、オクチョンは溜息をついた。
「無理だわ」
哀しげに言い、溜息をつく。スンがすかさず訊ねた。
「一体、何が無理なんだ?」
「この子を鶏肉屋に引き渡すのは無理」
「この子?」
スンの美麗な面が半ば引きつっているのも彼女は気づいていない。彼女にしてみれば、これから捌かれる運命の憐れな鶏のことで頭が一杯なのだ。
オクチョンはまだぶつくさ言いながら、袖から桃色の小さな巾着(チユモニ)を出した。
「これで帰り道に蒸し饅頭を食べるつもりだったけど」
名残惜しげに巾着を振り、手のひらに銭を落とす。
「ええい、これも人助けのためよ。チャン・オクチョン」
彼女は叫ぶなり、スンに向き直った。眼を丸くしているスンの前で、つかつかと鶏肉屋に近寄り何やら必至の形相で談判している。ほどなく彼女は竹籠に入った鶏を手にして戻ってきた。
「この子を買ったの。どうせまた奥さま(マーニム)には叱られるだろうけど」
そこで、またうつむいた。
スンが気遣わしげに訊ねる。
「今度は何か他に問題でも?」
「大ありよ。シムチョンを連れて帰っても、どうせまた汁飯(クッパ)か鶏の蒸し物にされてしまうだけだわ。この子の可哀想な運命を少しだけ先延ばしするにすぎないの」
「シ、シムチョン?」
スンの声が上ずる。
「もしかして、その鶏の名前なのか」
「そう」
オクチョンは深刻な表情で頷いた。
「盲目の父親のために自らを犠牲にし、海に身を捧げた孝行娘のシムチョン。この子も自分を犠牲にしなければならない運命だから、シムチョンにしたのよ。ぴったりだと思わない?」
「そ、そうなのか」
どこか腑に落ちない顔のスンには頓着せず、オクチョンはまた哀しげな溜息をついた。
「ああ、可哀想な私のシムチョン」
「オクチョン、それではこうしよう」
スンの提案に、オクチョンは弾かれたように顔を上げた。それは鶏のシムチョンをスンが屋敷に連れ帰って飼うというものだった。
「本当?」
「ああ。俺の家なら、何とかなると思う」
「本当にシムチョンを捌いて食事になんかしない?」
「ああ、約束しよう」
スンもまた真剣な面持ちで頷いてくれたので、オクチョンは漸く安堵の表情を浮かべた。
それからはシムチョンの入った籠はスンが持ち、二人は目抜き通りを歩いた。今日も下町の大路には人が絶えず行き交い、両脇に並ぶ露店からは物売りの呼び込みの声がひっきりなしに聞こえてくる。
今、この国が繁栄の一途を辿っているのがひとめで判る賑やかさだ。と、二人の耳を破れ鐘のような大音声がつんざいた。
「今日こそは、お前を役所に突きだしてやる。覚悟しろ。このガキ」
今度もオクチョンの反応は早かった。スンが止めるまもなく、彼女は声の聞こえてくる方に向けて走り出していた。
スンはもう仕方ないといった顔で、彼女の後についていった。今度は何をするのかと思いきや、オクチョンは怒鳴ってばかりいる大男相手に問いただし始めた。
「一体どうして、そんな小さな子を怒鳴りつけているの、おじさん(アデユツシ)」
相手は三十ほどの大男だ。頭が禿げていて、オクチョンとでは頭二つ分ほども身の丈が違う。ついでに横幅もオクチョンの二倍どころか三倍もありそうな大男で、いかつい身体は商売の他に肉体労働でもしているのか、赤銅色に灼けている。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻 作家名:東 めぐみ