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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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 彼はまた袖から手巾を取り出して、オクチョンの頬をつたう涙を甲斐甲斐しく拭った。
「いいえ、スンさま―スンは何も悪いことはおっしゃっていません。私が嬉しすぎて勝手に泣いてしまったのです」
「だから、その堅苦しい物言いは止めろ。俺たちは友達だ」
 スンは優しいまなざしでオクチョンを見た。
―ああ、こんな眼で見つめられたら、私はあなたを好きになってしまいそうです。
 オクチョンは言葉に出せない想いを飲み下した。友達でいようと言って貰えたことさえ、奇跡に等しいようなものだ。この国は身分制度が徹底している。
 隷民の自分と両班の若さまが恋に落ちるなんて、許されるはずがない。
「ご、ごめんなさい」
 オクチョンが言うと、スンは笑顔はそのままに言った。
「いや、俺の方が難しいことを言っているのは自覚している。でも、オクチョン。俺はそなたとの間では、そういう関係でいたい」
「友達のような?」
 オクチョンがおずおずと言えば、スンは大きく頷いた。
「そうだ。身分なんて関係ない、何でも包み隠さず話し合えるような、ざっくばらんな関係が築けたら良いと考えているんだが」
―その先に、恐らく恋はないのですね。
 オクチョンはまたも声に出せない想いを飲み下した。
 これだけで幸せだと思わなければならない。彼に友達でいようと言って貰っただけで。
 身分を顧みず分相応な立場を望めば、きっと天罰を受ける羽目になる。
 彼女が急に沈み込んだのにスンは気づいていたのかどうか、ふいに弾んだ声を上げた。
「オクチョン、ちょっと来てくれ」
 呼ばれて近づいた途端、伸びてきた彼の手が髪に軽く触れた。
「っ」
 まったく、彼には毎度ながら愕かされる。初めて火事で助けてくれたときも、いきなり頬に触れられて愕いた。もっとも、あの時、スンには下心など微塵もなく、ただ彼女の頬が汚れているのを気遣ってくれただけだったのだけれど。
 たった二度しか逢ったことのない男でも、オクチョンにはイ・スンという男がどんな人間が判った。彼はとても大きな人に違いなかった。大きいというのは、あらゆる意味を指す。器の大きな人、心の大きな人。誰よりも優しく、そして果断な決断力を持つ男に相違ない。
 彼の特性は、誰もが尻込みしていた大火事の中でも躊躇わず飛び込んでいったこと、奴婢である母にも礼儀を持った態度を示したことがよく示している。
 しかし、今度は一体、何の意図があって髪に触れるのか? 彼のことだから、何か意味があるのだと理解はできたが、オクチョンは一つのことに気づいた。
 自分は、彼が髪に触れることを望んでいるという事実に 。
 その事実に行き当たった時、オクチョンはカッと身体が熱くなるのを自覚した。
―私ったら、一体、何を考えているの。
 男性を相手に?触れて貰いたい?と考えるなんて、はしたないことこの上ない。その程度の自覚はもちろんあるつもりだ。
「先刻からオクチョンはずっと熱心にこればかり見ていた」
 スンが眼の前にかざしたのは、簪(ピニヨ)だった。この季節にちなんでか、桜を象っているのは、見事な玉だ、紅水晶だろうか。だが、オクチョンは咄嗟に別のノリゲを指さしていた。
「私はあちらが」
 言ってから、しまったと後悔しても遅い。殿方から贈り物を貰う時、こちらから?あれが良い?などと間違っても口にするものではないと普段から母に厳しくしつけられている。
「そうなのか?」
 スンは気を悪くした風もなく、身軽に売り物が並ぶ台に近づき、オクチョンが指したノリゲを手にした。
「これか?」
 オクチョンは耳まで染めて頷いた。
「私ったら、ごめんなさい。気を悪くされてなければ良いのだけど」
 スンは笑いながら首を振った。
「女の我が儘にはこれでも慣れているから、大丈夫だ、気にしなくて良い」
 この言葉はどこか引っかかるものだった。この言い様では、何かスンがたくさんの女と関わりを持ってきたように聞こえる。けれどと、オクチョンは思った。
 自分はスンの私生活―殊に女性関係についてとやかく言える立場でもなく、言うべきでもない。それに、折角彼と再会できたこの大切なひとときに、余計なことを考えて台無しにしたくなかった。
 もしかしたら、彼とはこれで二度と逢えないかもしれないのだから。最後なら、とびきりの良い想い出にしたいし、彼にも最高の自分を記憶にとどめておいて欲しい。それは切ない女心に他ならなかった。
 既にこの時、彼女自身は気づいていないが、オクチョンはスンに恋をしていたのだ。いや、気づいていても実ることのない恋ゆえに、自ら気づかないようにしていただけかもしれない。
「これは何の花だろう」
 何にでも好奇心旺盛なのか、スンが首をひねりながら呟く。オクチョンはすかさず言った。
「紅吊舟(べにつりぶね)といいます」
「紅吊舟?」
 スンが眼をまたたかせた。
 スンが持つノリゲをオクチョンは微笑んで眺めた。
 紅吊舟は初夏から初秋にかけて咲く花である。色鮮やかな花がひろがるように咲くのが特徴的だ。花一つ一つはさほど大きくはなく、可憐な印象だ。色は色々とあるが、今、ノリゲについているのは濃いピンクだった。
「私の好きな花です」
「そうか、では、店主、これを一つくれ」
 スンが袖から巾着を出したものだから、オクチョンは慌てた。
「スン、止めて。このような高価なものを頂くわけにはいかないから」
 だが、彼はいっかな聞こうとはせず、さっさと代金を払いノリゲを手にしてしまった。
「毎度ありがとうございます」
 中年の店主の愛想の良い声に送られ、二人はまた並んで歩き出した。
「この玉は何というのだろうか」
 スンが大きな手のひらでノリゲを弄びつつ独りごちた。オクチョンは笑って言う。
「恐らくは紅玉(ルビー)ではないかと」
「紅玉?」
 スンは眼を見開いて呟き、感心したように彼女を見た。
「オクチョンは何でもよく知っているな」
「そんなことはありません」
 彼にまともに見つめられ、また身体中の血が頬に集まってくるような、胸が苦しいほどの動悸に見舞われる。
「私は仕立物をするのが好き。だから、服飾について少しなら知っているだけ、ただそれだけのことよ」
 まだ両班の若さま相手に砕けた言葉で話すのは難しいけれど、スンが望むならとオクチョンは努めて普通の態度で接するように心がけた。
 と、ふいにスンの眼が何事か思いついたように煌めいた。
「仕立物が好きというなら、服なども縫えるのか?」
 その問いに、オクチョンは頷いた。
「ええ」
「女人のチマチョゴリなどもか?」
 頷きつつも、スンの恋人のために衣服を縫うのは嫌だなと訴える自分がいる。
 だが、彼はオクチョンが予想外のことを言った。
「母に縫って欲しいのだ」
「お母さまにですか?」
「そうだ」
 意気揚々と頷く彼の嬉しげな顔を見て、ここで否とは言えなかった。何よりスンの歓ぶことなら、何でもしてあげたいと思うのだ。
「私で良ければお作りさせて頂きますが、お母さまが私の作ったようなものをお召しになるかしら」
 スンの母といえば、貞淑な両班の奥方のはずで、そんな深窓の令夫人がそもそも隷民の小娘が仕立てた衣服を纏いたがるものだろうか。