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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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 いや、あの方と出逢わない人生など、あり得ようはずがない。私はあの方の眼を見たそのときから、永遠に終わらない恋に落ちてしまったのだから。
  
 火事で屋敷が焼失してしまい、オクチョンはその後、伯父の別邸に移った。オクチョンの伯父チャン・ヒョンは通訳官を務める傍ら、手広く商いをしている。通訳官は清国に定期的に派遣される使節団の一行として清国に渡る。伯父はその特権を利用して清国から様々に珍しいものを持ち帰り、商品として売りさばくことで多大な利益を得ていた。
 通訳官の身分はさして高くはないけれど、伯父は両班並みの豪勢な暮らしをしている。そのお陰で、都内にも屋敷を幾つか持っていた。その一つに一家は使用人も含めて移り住んだのである。
 ある日、オクチョンは伯母の知り合いの両班の奥方に届け物を届けにいった。もちろん、伯母の命である。オクチョンは手仕事―殊に仕立物が上手かったため、屋敷では重宝がられていた。派手やかなチマチョゴリを仕立てるのを頼むときだけは、伯母も猫なで声を出すのだ。
 その日、オクチョンは自分が仕立てた衣服を届けにいったのだ。
 季節は春たけなわ、都漢陽(ハニャン)の桜の名所では桜が折りしも満開である。張家の仮住まいである屋敷の庭においても、桜が見事に咲きそろい、使用人たちの眼を楽しませてくれていた。
 本当は少しくらい桜並木が植わっている辺りをそぞろ歩いて帰りたいと思ったが、帰りが遅くなれば、また伯母にどこで油を売っていたのかと叱られる。
 だが、下町の露店を冷やかして帰るくらいは許されるだろう。オクチョンは大通りに立ち並ぶ露店の一つ一つを覗いていった。
 その一つに小間物を商う露店があった。店先にはいかにも若い女性が歓びそうな小間物が溢れている。丈の低い長台に整然と置かれたそれらにオクチョンは熱心に見入った。
「何をそんなに熱心に見ているんだ?」
 突如として背後から声をかけられ、オクチョンは飛び上がった。
「あ」
 と、思わず小さく声を上げてしまう。少し離れた先で人懐っこい笑顔を浮かべていたのは例の若い両班、張家の火事でスヨンを救ってくれた男だった。
「―愕きました。急に声が聞こえてくるから」
 男は軽やかな笑い声を上げた。
「済まぬ。ずっと、そなたに逢いたいと思っていたものだから、そなたに似た娘を町中で見かけた途端、つい声をかけてしまった」
 そのひと言に、オクチョンは眼を見開いた。
―ずっと、そなたに逢いたいと思っていた。
 その言葉に希望を抱いては駄目、必要以上に深い意味を持たせてはいけないと自分を強く戒める一方で、押さえがたい歓びがじんわりとわき上がってくる。
 考えるよりつい先に言葉が出た。
「私も若さまにお会いしたいと思っておりました」
 口にしてから両手で口元を覆った。
 何という大胆で、恥知らずなことを言ったのだろう。大体、一ヶ月前のあの火事のときも、考えみれば自分は随分と恥ずかしい姿を彼に見せていた。危急のときとはいえ、チマを引き破った下半身は下着姿でいたのだし、彼をびしょ濡れのまま帰らせてしまった。
 せめて着替えて下さいとくらいは申し出るべきだったのに。さぞ気遣いのできない女だと呆れられかと落胆と後悔の入り交じった気持ちで過ごしていたのである。 
 改めてそのことを思い出し、オクチョンは言った。
「先日は助けて頂いたのに、ご無礼を致しました。若さまはお召し物が濡れていたのに、何の気遣いも致しませず、申し訳ないことをしました」
 と、男は屈託ない笑みでかぶりを振った。
「あれだけの火事であったのだ。生命が無事であっただけ良しとせねば、ましてや、濡れた衣服のことなど気に掛ける余裕があるはずがない」
 相変わらずの優しい言葉に、オクチョンは本当に涙が出そうになった。
「お言葉、ありがとうございます」
 男が吐息混じりに呟いた。
「怪我人などは特に出なかったのか?」
「はい、皆、逃げるのが速かったので」
 彼が苦笑した。
「皆、我が身が逃げるのに精一杯で、幼い子どものことなぞ眼中になかったというわけか」
「お恥ずかしいことです」
「いや、人間など、咄嗟のときにはそのようなものであろうよ。自分がいちばん可愛いのは両班であろうが、庶民であろうが変わらぬということだ」
 どこか自嘲気味に呟き、彼は改めてオクチョンを見た。あの黒い瞳に真正面から見つめられ、オクチョンの鼓動がまた速くなる。
「ところで、あの者はそなたの妹、もしくは縁者なのか?」
「あの者と申しますと、スヨンのことでしょうか」
 恐らくはと見当をつけて訊ねると、彼は笑顔で頷いた。
「そうだな、確か、あの時、そなたはスヨンと呼んでいた」
 オクチョンは首を振った。
「スヨンは身内ではありません。ですが、私にとっては妹のようなものです」
 彼女はスヨンが張家に来た経緯などをかいつまんで話した。男は頷きつつ耳を傾ける。
「スヨンの側にそなたのような者がいて良かった」
 オクチョンは微笑んだ。
「私の方こそ、スヨンがいてくれて良かったのです」
 と、伯母に罰として食事抜きにされたときはスヨンが握り飯を運んでくれるのだと笑いながら話した。
「そなたの伯母は、そのような罰を与えるのか?」
 そこで彼が少し躊躇ってから、続けた。
「オクチョン」
 それは彼がオクチョンの名を初めて呼んだ瞬間だった。何故なのか、彼に我が名を呼ばれ、胸が震えた。今まで特に大切だとも思わなかった自分の名前が彼の口から発せられると、とても美しい響きを持った言葉に聞こえてくるのは、我ながら不思議に思った。
「あの」
 オクチョンは思い切って言ってた。
「一つだけ伺っても、よろしいでしょうか」
「うん?」
 彼が少しだけ近寄り、彼女の口元に耳を傾ける。随分と至近距離だ。伯父や兄以外に、こんなに男性と近づいたことはない。
 今、自分たちは傍目にはどのように見えている? 寄り添い合って睦まじげに歩く恋人? そこまで考えて、彼女はふいに哀しくなった。
 自分はきちんと洗濯がしてあるとはいえ、木綿の洗いざらしのチマチョゴリで、傍らを歩く若さまは上等のパジを着ている。誰が見ても似合いの恋人だなんて、何を私は馬鹿なことを考えているのだろう。
 私とこの方が並んで歩けば恋人どころか、両班家の坊ちゃんとお付きの下女くらいにしか見えないのは判っている。
「俺に応えられることなら、何なりと」
 悪戯っ子のような表情で言う彼に、オクチョンは無理に笑顔をこしらえた。
「若さまのお名前をお伺いしても?」
「俺? 俺の名前はスン。イ・スンというんだ」
「スンさま」
 彼が笑った。
「スンで良い。それと、二人だけのときは堅苦しい物言いは禁止だ。何せ、俺たちは友達だからな」
「私たちが友達、ですか」
 オクチョンが茫然として言うと、イ・スンと名乗った青年はにっこりと頷いた。
「火事という難局を二人して切り抜けた。これを同志といわずにして何と言う?」
 友達! オクチョンの沈んでいた心が一斉に無数の蝶が羽ばたくように浮き立った。
 つい嬉しくて堪え切れなかった涙がひと粒、頬をつたった。
 スンは愕いたようだ。
「オクチョン、俺は何か心ないことを言ったか?」