炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻
確かにスンとはほとんど毎日のように夜を過ごしているけれど、寝所で話すのは、その日にあったこと、どうして過ごしていたかとか、他愛もない話ばかりである。
―もっとオクチョンと一緒にいたい。明日の午前中は久しぶりに町へ出てみないか?
昨夜も誘われたのだが、オクチョンはスンを諫めた。
―明日は領議政さまと個人的なお話があると言っていたでしょ。個人的な愉しみのために、政を疎かにしては駄目よ。
怖い顔で言うのに、スンはまるで弟のように頬を膨らませ、オクチョンを笑わせたものだ。
―つまらぬ、最近のオクチョンはやっぱり、年上女房になった。俺がやることなすこと、全部、駄目駄目と言ってばかりだ。
本気で怒っているとばかり思ったから、流石に王さまに対して口が過ぎたかと反省したのだ。だが、スンはすぐ後でオクチョンに抱きついてきた。
―これからも俺が王として道を誤りそうになれば、変わらず諫めてくれ。
―あら、口うるさい年上女房はお嫌いではなかったの?
笑いながら言うと、そのまま褥に押し倒された。
―口うるさいオクチョンも、どんなオクチョンも俺は好きだ。でも、こうやって俺に抱かれて可愛らしい声で啼くオクチョンがいちばん好きかな。
こうなると、一度火が付いた若い身体は止まらないらしい。オクチョンはスンにさんざん喘がされ、啼かされるまで解放しては貰えない。
昨夜の閨での出来事を思い出していると、我知らず頬が紅くなった。
大王大妃がそんなオクチョンを微笑ましく見つめた。
「まあ、良い。何も言わずとも、今のそなたを見ておれば、幸せであるとは判る。大切なのは夫婦が睦まじきことであるからな」
そのときの大王大妃の口調は少しだけ淋しげに聞こえた。やはり、自身が不遇な夫婦生活を送っただけに、考えるところがあるのかもしれない。
オクチョンは大王大妃を真っすぐに見た。
「私について、人がどのように噂しているかは知っています。ただ、大王大妃さま、私自身は天に恥じるところは一つもありません。世の人が言うように、国王さまに寝所でねだりごとをしたこともありません。ゆえに、言いたい者には言いたいように言わせておけば良いと思っています」
「そうか」
大王大妃は軽く頷き、オクチョンを見返す。
「オクチョン、そなたの凜とした態度は好もしい。私がそなたの立場でも、恐らくは同じことを考えたろう。されどな、悪は千里を走るという諺をそなたも存じておろう。人はとかく他人の悪しき噂ほど、好んで語り広めたがるものだ。時として、そのような根も葉もない噂が噂される当人を陥れ、その身を滅ぼすこともある。ただの埒もない噂といちがいに侮ってはならぬ。それだけは心得ておくのだ」
はい、と、オクチョンは素直に頷いた。大王大妃が心底から気遣ってくれているのが判ったからである。
「噂と申せば、大王大妃さま、一つだけお訊ねしてもよしいでしょうか」
「ああ、何なりと申せ」
大王大妃は機嫌良く応える。オクチョンは気になっていたことを訊ねてみた。
「私が蓮池に落ちたときのことです」
「おお、そんなことがあったの」
大王大妃が幾度も頷いた。
「世間では、国王殿下と私を引き合わせたのが大王大妃さまだとしきりに噂しているようですが」
「ああ、そのことか。私も存じておるが、その噂が気になるのか、オクチョン」
「いいえ」
オクチョンはかぶりを振った。
「私にとって大切なのは国王殿下と出会えたという事実だけですゆえ、気には致しません。さりながら、気になることがあります」
「それは何だ?」
興味を惹かれたらしい大王大妃に、オクチョンはひと息に言った。
「池に落ちた私が意識を失っていた間、ミニョンが側についていてくれました。その他にも、側にいて下さった方がいたように感じているのですが」
朦朧とした意識の底で、スンらしい男性の声が大王大妃と会話しているのを聞いたのだと打ち明けた。
「別に隠すほどもない。そなたの想像どおり、その方は主上だ」
オクチョンはあのときの二人の会話を思い出しながら言った。
「大王大妃さまはあの時、既に国王さまと私のことをご存じだったのですね」
「ああ、知っていた」
大王大妃は事もなげに言った。
「オクチョン。いつかも申したと思うが、私は少しばかり観相をする。私が見た限り、そなたと主上は並々ならぬ深い縁で結ばれている。いわば、二人は出逢うべくして出逢い、結ばれるべくして結ばれた」
ここで、大王大妃は眼を閉じ、しばし思案に耽った。オクチョンは黙って次の言葉を待つ。
ややあって、大王大妃は眼を開き、慈しみ深い眼で彼女を見た。
「いつの日か、そなたを危機が見舞うやもしれぬ。それがいつで、どのようなものなのか。私にもっと力があれば、災難の避けようを教えてやることもできるが、生憎と私は人の未来を少しばかり読めるにすぎぬ。オクチョンや、悪は千里を走り、悪しき噂ほど恐ろしいものはないとよくよく肝に銘じておくのだぞ。私はそなたが?妖婦?などではないとよく知っているが、そなたという者をよく知らぬ者たちは、もしや噂を信じるかもしれぬ。遠い将来、その間違った噂がそなたを破滅に導くこともあるのだ」
ありがたいことだった、高貴な大王大妃のような人が自分を実の孫娘のように案じてくれている。
オクチョンは胸に熱いものがこみ上げた。
「お教え、心に深く刻み、生涯忘れません」
「この殿舎から、そなたがいなくなると淋しくなる。毎日でも良い、顔を見せてくれ」
暑気当たりで倒れかけたところを介抱したのが、大王大妃に出逢った最初だった。その時、大王大妃の穏やかな笑顔を見て、その笑顔が誰かに似ているとオクチョンは感じたものだ。幾ら思い出そうしても思い出せなかった。
今なら、笑顔が誰に似ていたのか判る。スン―国王粛宗に似ているのだ。大王大妃とスンは血の繋がりはないが、スンは大王大妃を実の祖母のように慕っている。幼いときから、ここにも繁く出入りしていたというから、自然に大王大妃の影響を受けたとしても不自然ではない。
大王大妃からは清国渡りの美しい薄紅色の布を賜り、殿舎を後にした。
―殿御はやはり美しいものに眼がない。そなたも日々、化粧、佇まいに気を配り、美しく装い、主上のお気持ちを逸らさないようにするのだぞ。
そのために上物の絹布で新しい衣装を作るようにということらしい。
ミニョンが絹布を包んだ風呂敷を恭しく捧げ持ち、シン尚宮が背後を守るように歩いている。
新たに与えられた殿舎に戻る道すがら、オクチョンはふと立ち止まった。
「尚宮さま、どうかされましたか?」
今では腹心の女官となったミニョンが丁寧な口調で訊ねる。オクチョンは微笑んだ。
「紅吊舟が咲いているわ」
見れば、数本ではあるが、オクチョンの好きな花が群れて咲いている。一つの株に幾つかの花が集まっているのだ。
「本当ですね。このような道に咲いているとは珍しいですわ」
「いつか、この花を殿舎の庭にたくさん咲かせたい」
ミニョンは平然と言った。
「それでは、早速、手配致しましょう」
「今はまだ駄目よ」
「何故でございますか?」
オクチョンは遠い眼になった。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻 作家名:東 めぐみ