炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻
半月の光が惜しみなく降り注ぐ蓮池では、物言わぬ蓮花たちが若い恋人たちの逢瀬を見守っている。時折、気まぐれに池面を吹き過ぎる夜風は存外に涼しく、風が渡る度に池の面に細かな波が立ち、月光の色に染まった銀の波が揺れた。
女官チャン・オクチョンが粛宗の寝所に召されたのは、その翌晩である。
オクチョンの支度は夕刻から時間をかけて、念入りに行われた。湯殿には満々と清潔な湯を湛えた浴槽が準備され、オクチョンは数人がかりで磨き上げられた。緋薔薇の花びらを浮かべた湯のせいか、湯上がりの肌は透き通るようになめらかで、ほのかに香った。
しかし、それだけでは足りず、コン尚宮は女官に命じて更に花の香油をオクチョンの肌に丹念にすり込ませた。夜具に腹ばいになったオクチョンは一糸纏わぬ生まれたままの姿で、女官たちが香油を手のひらで直接塗り込んでゆくのだ。
洗い上げた漆黒の髪にも同様に香油が振りかけられ、甘い花の香りがオクチョンの全身から立ち上ってくるようだ。
白い夜着を着せ付けられ、洗い髪は横で一つにゆったりと束ね、薄化粧を施される。唇だけ燃えるような紅に塗られ、オクチョンは顔をしかめた。
化粧を担当したのは、親友のミニョンだった。
「ミニョン、この紅の色って、濃すぎない?」
遠慮がちに言えば、ミニョンは笑った。
「オクチョンは普段から濃いお化粧は好きではないものね」
「そうなの、折角なんだけど、紅は落としても良いかしら」
オクチョンが困ったように眉を下げると、ミニョンはいつになく怖い顔になった。
「駄目よ、寝化粧はこれくらいじゃないと」
後半の科白は耳許に唇を寄せられ、低声で告げられた。
「国王殿下をその気にさせられないわよ? 良いこと、オクチョン。今夜から、あなたの運命は国王さま次第になるわ。お若い殿下をどれだけ惹き付けておけるかで、後宮でのあなたの立場も変わるの。だから、うんと綺麗にして、殿下をよそに行かせないようにしないとね。紅もこれくらい派手な方が?そそられる?でしょ」
いつも大人しいミニョンとは思えない科白に、オクチョンは耳朶まで熟れた林檎のように染め上げた。
どうやら、ミニョンに対しての認識を新たにせざるを得ないようである。ミニョンは大人し過ぎて異性と会話するどころか、まともに顔を見ることできないほど奥手だと、オクチョンは信じていた。けれど、彼女が思うより、ミニョンは男女のことについて柔軟な考え方を持っているようだ。
もしかしたら、自分よりも、そういったことに拓けているのかもしれないとすら、思う。いずれにせよ、これから女たちが?を競う後宮という伏魔殿で生きてゆくためには、ミニョンが側にいてくれるというのは心強い。
王の寝所に侍る支度を調えた後、オクチョンはたくさんの女官たちに囲まれ、大殿に向かった。いかにも謹厳そうな中年の尚宮が雪洞を掲げ、先導する。オクチョンが続き、その周囲を固めるように十人ほどの女官が行列を作って続いた。むろん、その中にはミニョンもいる。
オクチョンにとっては大好きな男と結ばれる夜ではあっても、それ以上でも以下でもない。けれど、ただ一人の男と女の結びつきというだけにしては、あまりにも大仰すぎて、儀式めいていた。
けれど、スンの国王だという立場を考えれば、当然ともいえた。王が新たな女人を迎えるというのは、それほどに重大なことなのだ。が、オクチョン当人は、自分が王の?お手つき?となるのがどれだけ大きな意味を持ってくるのか、この時点では殆ど理解できてはいなかった。
大殿に入り、よく磨き込まれた長い廊下を、一行は粛々と進んだ。宮仕えに上がって三ヶ月、オクチョンとて大殿に来たことがないわけではないが、馴染みがないのに変わりはない。
やはり大王大妃殿とは比べるべくもなく広く、一人で歩いていたら迷子になりそうだ。迷路のような廊下が永遠に続くのではないかと思い始めた頃、漸く寝所の扉が見えた。
スンに早く逢いたいと思う一方で、この廊下が永遠に続けば良いのにとも思う。好きな男が相手だとはいえ、やはり怖い。
龍が大空を飛翔する文様が精緻に刻み込まれた扉の前で、尚宮は歩みを止めた。扉の前にはオクチョンにも見憶えのある大殿内官や尚宮の姿も見える。穏やかな雰囲気を漂わせる提調尚宮もむろんいた。
提調尚宮は後宮を統括する女官長である。女官長が進み出て、オクチョンに丁重に頭を下げた。慌ててオクチョンもお辞儀を返すのに、付き添った謹厳な中年の尚宮が耳打ちした。
「挨拶を返す必要はありません」
オクチョンの物問いたげな視線に、尚宮は囁く。
「今宵から、チャン女官は畏れ多くも国王殿下の承恩をお受けるになる立場です。今までとは違うことをご理解下さい」
承恩とは、国王の寵愛を意味する。つまり、女官ではあるが、王の寵愛をひとたび受ければ、その身は高貴だとされるから、後宮女官長といえども、最早、格下になるというわけである。
オクチョンは内心、溜息をついた。後宮のしきたりは本当に厄介だ。たとえスンと結ばれたとしても、オクチョン自身は何ら変わらないのに、その立場は昨日までとは違うという。今まで雲の上であった女官長の方がオクチョンに丁重に頭を下げるようになる。
王の寵愛がそれだけ後宮においては絶大な影響を及ばすのかを厳然たる事実として、彼女は突きつけられた。
「お鎮まりあそばして、何事も殿下の御意のままにお従い下さいませ」
女官長は仰々しい口調で言い、オクチョンの身体を寝衣の上から形式的に検めた。これは王の寝所に侍る側妾が武器などを持ち込まないようにするためだ。万が一、王が寝首をかかれる危険性を回避するためともいえる。
現に、何代も前の国王の御世には、王に見初められて寝所に侍った女官が刺客だったという事件も現実に存在した。政変で両親を処刑された両班の息女が国王を恨んでの所業であったと後に判明した。
以来、国王の寝所に侍る女は、入室前に女官長が入念に検めるようになった。もっとも、最近はこれもごく形式的なものになりつつある。
女官長が深々と頭を下げると、一同も一斉にオクチョンに頭を下げた。今宵、若い国王に見初められ、玉の輿に昇る幸運な女人への敬意が示されたのだ。
内官によって両開きの扉が開け放たれる。オクチョンは深呼吸して、寝所に足を踏み入れた。
寝所は眼を瞠るほど広かった。オクチョンが与えられている居室の数倍はあるだろう。しんとしたしじまが満ち、まるで深い水底(みなそこ)にいるような錯覚に囚われる。
足を踏み入れたは良いが、彼女は心細くなり、背後を振り返った。重厚な紫檀の扉が軋みながら閉まった途端、もう引き返せないのだという想いがひしひしと迫ってくる。
覚悟を決めて振り向けば、入り口から少し離れた場所に豪奢な夜具がのべられていた。華やかな牡丹色が眼に眩しいようだ。その傍らにな山海の珍味が山盛りになった小卓が幾つか並んでいる。酒肴の用意も準備されている。
スンが小卓の前に座っている。
「オクチョン」
恋人の嬉しげな笑顔に、オクチョンも誘われるように笑顔になった。
大丈夫、スンは変わらない。私の大好きなイ・スンという男だもの。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻 作家名:東 めぐみ