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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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 大王大妃殿のチャン・オクチョンを池に突き落とした女官二人は事件発覚当日に後宮を追放されたため、オクチョンが目覚めたときは既にセギョンもチェ女官も姿を消していた。
 そして二人の中の一人、チェ・ソンイは繍房では腕利きのお針子であり、将来を期待されていた。また大妃のお気に入りでもあったのだ。今回も大妃はチェ女官を庇おうとしたものの、前回と異なり大王大妃が表に出て事を収めたので、さしもの大妃も出る幕はなかった。
―あの王室の厄介ものめが。
 後宮中を駆け巡った噂によれば、大妃は国王の母君とも思えぬ品のない言葉を並べ立て、大王大妃を罵り、地団駄踏んで悔しがったそうだ。
 それを聞いて手を打って歓んだのは大王大妃殿の女官たちで、裏腹に大妃殿の女官たちは悔し涙に暮れた。
 更には、この事件によって、女官?チャン・オクチョン?の名は大王大妃殿どころか、後宮中に知れ渡ってしまった。何しろ、若い国王がオクチョンの許に駆けつけ、寝食も取らず看病を続けたというのだ。これも前代未聞のことで、大妃を激怒させるには十分すぎた。
―たかだか女官の分際、しかも聞けば隷民上がりというではないか。そのような賤しい身分のおなごを大切な主上に近づけるとは、あの年寄りはいよいよ耄碌して気が触れたか!
 大王大妃が粛宗にオクチョンの危急を知らせたというので、いつしか大王大妃自身が二人の間を取り持っただとか、果ては、
―お子のおられない大王大妃さまが美しい女官を餌にお若い国王殿下をご自分に惹き付けておこうとなさっているのだ。
 などと、オクチョンを政治的な駒として使い、わざと粛宗の眼に止まるように仕向けたと穿った見方までする者も現れた。
 これらの噂は事実無根だった。だが、いつしか噂は野火が枯れ野にひろがるように定着し、粛宗とオクチョンの出逢いは仕組まれたものと人々は囁いた。
 この事件によって、粛宗の母明聖大妃のオクチョンに対する評価は、これ以上下がらないというところまで下がった。
     
 それらの悪しき噂を、オクチョンはまるで他人事のように聞いていた。
―だって、仕方ないじゃない。私は国王さまにお会いしたこともないのに。何がどうやって、出逢いを仕組まれただなんていう噂が立つのか、私の方が聞きたいくらいだわ。
 そう思う傍ら、その疑問の応えはもうほぼ判っているようなものだとも理解していた。
 オクチョンがスンから逢いたいと連絡を受けたのは、そんな埒もない噂がまだ王宮内を飛び交っている最中だった。まったく、宮殿内のどこに行っても、女官たちが遠巻きに自分を見てひそひそと囁き合うので、居心地が良くない。
 今までのように虐められることも嫌がらせを受けることもないけれど、代わりに好奇と侮蔑の入り交じった視線が肌に突き刺さるようだ。
―私が何をしたっていうの?
 大声で怒鳴り返したい気分だった。
 そんなところに、スンから呼び出しを受けた。これまでは短い逢瀬を持った別れ際に、次に逢う約束をしていたのだ。
―彼(か)の君がそなたに逢いたいとたっての思し召しだ。
 その連絡は、あろうことか、大王大妃自身から伝えられ、その刹那、オクチョンは恐らくは我が身の予感がほぼ現実であるのを悟った。
 居室を辞す直前、オクチョンよりはるか年上の高貴な女性―かつて自らも辛い恋をしたという―は、こんなことを言った。
―そなたにとって何がいちばん大切なのか、とくと見極めることじゃ。つまらぬ噂や、周囲の思惑などに振り回されず、己れの心だけを見つめよ。そなたのこれよりの生きる場所は、自分の心の奥にしかない。そなた自身にしか判らぬことだ。
 出ていきかけたオクチョンを再度、呼び止め、大王大妃は優しい花のような笑顔を浮かべた。
―大切な人の手をけして放すでないぞ。
 その瞬間、オクチョンは蓮池のほとりで聞いたコン尚宮の昔語りを思い出したのだった。
 かつて大王大妃がはるかに年上の良人仁祖に少女らしい憧れと恋心を抱いていた、と。
 確かに、そのときの大王大妃の笑顔は、漢陽の長く厳しい冬を乗り越えた花が咲いたようで、長くオクチョンの心に残った。
 入宮後まもない若い時代のオクチョンに大きな影響を与えた人であり、また同時にオクチョンの後ろ盾として終始、彼女を庇護してくれた存在、それが大王大妃であったのである。

 かそけき月の光が静かに巨きな池を照らし出していた。限りなく静謐な空間に、あたかも白々と月明かりに照らされるその場所だけがぽっかりと浮かび上がっているようにも見える。
 すべてが厳粛なほど静けさに満ちていて、オクチョンは今、自分が存在するこの空間があたかも現し世とは切り離された場所のようにすら思えた。
 見上げれば、半分だけ欠けた月が紺碧の空に浮かんでいる。既に暦は七月に入ったばかの宵であった。清かな月光が光の粒となって地上に降り注いでくるようだ。
 清らかな水辺は、昼間の暑熱が嘘のように風がひんやりとして心地よい。
 蓮池の蓮たちは今、蕾を閉じて深い眠りについている。光の粒が蕾たちに降り注ぎ、蓮花もまた淡く発光している。銀色に染まった花は得も言われず美しい。そう、まるでこの世のものではないように。
 思えば、スンと二人で満月を眺めたのは町外れの垂れ桜の下でだった。蒼褪めた月がすべてを幻想的に照らし出す中、彼と二人、夢のような一刻を過ごしたのだ。
 あの夢のような夜からまだみ月ほどしか経ていないのに、随分と遠いところまで来てしまったような気がする。そう思うと、知らず涙が滲みそうになり、手のひらで無造作にこすった。
「オクチョン」
 大好きな深い声。でも、振り向くのが怖い。彼の顔を見るのが今だけは怖くてならなかった。
「オクチョン!」
 何度か呼ばれても振り向かないのに焦れたのか、叫ぶように呼ばれる。
 オクチョンは意を決して振り向いた。大好きな男、スンがひっそりと佇んでいる。反射的に彼女は笑顔になり、彼に向かって走りだそうとした。  
 けれど。踏み出しかけた脚が止まった。
 顔は確かに大好きなスンだ。けれど、彼は龍の縫い取られた王衣を纏っていた。
 オクチョンは鋭く息を吸い込んだ。ヒュッと喉が鳴る音が夜陰に響いた。
―誰、この人。
 心が、悲鳴を上げる。
 眼の前に立つひとは、オクチョンの知らない男だ。そう、スンにとてもよく似た面立ちの―後宮の女たちが眩しくてまともに見られないという美しい国王さま。
「オクチョン」
 また、名を呼ばれた。大好きな声もスンと同じ。でも、この美しい男は私のスンではない。
 だって、そうでしょう、スンが、私の恋人がこの国の王だなんて、あるはずがない。
 オクチョンの眼から透明な涙が溢れ出した。スンによく似た男が両手をひろげる。甘やかすように、限りなく優しい声音でオクチョンの名を呼ぶ。
「オクチョン」
 けれど、両脚はその場に縫い止められたように動かない。
「何故、騙したの?」
 悲鳴のような、声。自分のものとは思えないほど悲痛な響きを帯びている。
「騙したわけではない」
 なのに、スンの方がもっと哀しそうなのは、何故? 騙された私より、どうして騙したスンの方がそんなに苦しそうな、傷ついた瞳をしているの?