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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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 誰かが泣いている。こんなに哀しそうに声を震わせて。
「オクチョン、済まなかった。俺が優柔不断だったばかりに、そなたをまたしても危険な目に遭わせてしまった」
 この声は。
 オクチョンは眼を開けようとしたけれど、それだけの力がなかった。
 スンが、大好きな男が泣いている。
「俺はそなたを守ると誓ったのに、結局、守れなかった。許してくれ、オクチョン」
 スン、泣かないで。私は大丈夫だから。私が哀しくなるのは、自分が辛いときじゃない。あなたが泣いているときなの。
 大切なあなたには、いつも笑顔でいて欲しい。あなたを困らせるようなことはしたくないの。もし、いつか私があなたの重荷になったり困らせたりしたら、そのときは、私は自分から姿を消すわ。
 私がいなくなることで、あなたの苦しみが少しでも減るなら、私は歓んで自分の存在を自ら消すでしょう。
 私はそれくらい、あなたが好き。
 だから、そんなに哀しそうに泣かないで。
 オクチョンは心の中でスンに語りかけた。
「オクチョン」
 スンがまた名を呼んだその時。
 扉が開く音がした。
「殿下、大王大妃さまがお越しになります」
 畏まった声が聞こえた。あれは確かにコン尚宮の声だ。
 ほどなく衣擦れとひそやかな足音が続く。
「主上、少しは大殿に戻って寝んでおいでになられませ。もう、丸二日も殆どここを動いてはおられないではありませんか」
 大王大妃さまのお声。
「朕(わたし)のおらぬ間に、オクチョンに何かあったらと思うと、到底動けませぬ」
 これは、スンの声だわ。
「さりとて、主上がろくにお食事も召し上がらず、ここにいらっしゃると知って、大妃はまた発作を起こしそうになっているそうですよ」
「母上の許にはまた後で伺います」
「さりとて、ここまで目立つことをなさったからには、もうこのままにはしておけぬこともご存じでしょうね。オクチョンの存在は今や大妃どころか後宮中が知るところですよ」
「―存じております、お祖母さま。朕も男です、生涯にこの女だけと決めた想い人を日陰の花のままにしておくつもりはありません」
「主上のお気持ちがそこまでしっかりとなさっているのであれば、私も何も申し上げすまい」
 一瞬の沈黙、二人はまだ枕辺で何か話している。けれども、オクチョンは急激な眠りが訪れ、再び意識は深い闇の底へと呑まれていった。
 心のどこかで、何かがおかしいと告げている。側にいてくれたのはスンのはずなのに、何故、コン尚宮が彼を?殿下?と呼んだのだう?
 スンが王族だからといって、大王大妃さまとあんなに親しげに話すものだろうか。それに、大王大妃さまはスンを?主上?と呼んでいた。
 判らない、何がどうなっているの。
 スンは一体、何者なの―?
 朦朧としてゆく意識の中で、オクチョンは懸命に考えた。

 その夜、オクチョンは意識を取り戻した。スンらしき男の泣き声を聞いたその日のことだった。
 オクチョンが目覚めた時、枕許にはミニョンがついていてくれた。
「良かった、オクチョン。気がついたのね」
 ミニョンはオクチョンに抱きついて号泣した。
「私、どれくらいの間、眠っていたのかしら」
 訊ねると、ミニョンは泣きながら教えてくれた。
「三日も意識が戻らなかったのよ。このままずっと目覚めなかったらと思うと、私も死にそうだったわ」
 それから、ミニョンはオクチョンの身に起こった一連の出来事をかいつまんで話した。ミニョンらしく、オクチョンに衝撃を与えないように言葉を選んでいるのが判った。
「セギョンとチェ女官が二人で仕組んだことだったのね」
 オクチョンは吐息混じりに呟いた。
 無意識の中に、涙が溢れていた。自分でも気づかない間に、涙が頬をつたい落ちていった。
「私、セギョンがお菓子を持ってきてくれた時、あの娘が本当に仲直りしようと思ったと信じていたの。私って、馬鹿ね、ある人に言われたのよ、人が良すぎるのも大概にしろって」
 ミニョンは泣き笑いの表情で言った。
「オクチョンは悪くないわ。むしろ、私はその逆。あなたには、いつまでも変わらないでいて欲しい。後宮は恐ろしい場所よ。水面は綺麗な花が咲き誇っているのに、水面下では女たちが互いに牽制しあい、脚を引っ張り合っている。うわべの見えるところは綺麗なのに、水の下は泥だらけの蓮池のようなものだわ。そんな恐ろしい場所で、あなたのような女は初めてだったもの。いつも真っすぐに前を向いて輝いている。私にとって眩しいのは国王殿下ではなく、オクチョン、あなたの生き方なの」
「ミニョン」
 オクチョンは微笑んだ。
「ありがとう。こんな私の不器用な生き方をあなたは輝いていると言ってくれるのね」
「あなたは不器用なんかじゃない。ただ、真っすぐすぎるだけ。それがオクチョンが輝いている元なんだから、変わっては駄目よ」
 伸ばした手をミニョンはしっかりと握ってくれた。
「オクチョン、私はずっと、あなたの側にいるわ。たとえ、世界中があなたの敵になったとしても、私だけはあなたの味方だから、それだけは忘れないでね」
 そういえば、と、オクチョンは思いだしてミニョンに訊ねた。
「ミニョン、私が意識のない間、あなたがずっと付いていてくれたのね」
 確かに今のミニョンのように、意識のないオクチョンの手を握ってくれたひとがいた。あの時、自分はとても怖い夢を見て、うなされていたはずだ。
 と、ミニョンの愛らしい顔がさっと翳った。どこか戸惑うような表情で言う。
「そ、それは、私だけではないわ。コン尚宮さまとか、他にもいらっしゃったけど」
「そう。心配をかけて、ごめんね」
「水くさいことを言わないで。私たち、友達じゃない」
 オクチョンは笑顔で頷いた。まだ笑おうとしても、どこか力が入らず、ぎこちない笑みになっているだろう。
 自分は熱に浮かれていた。身体が異様に熱かったから、高熱も発していたに違いない。そんな朧な意識の中で漏れ聞いた会話ゆえ、聞き違い、勘違いということは考えられる。
 まさか国王殿下が一女官の―それも見ず知らずの自分のところに来るはずがないではないか。
 けれど、あれは間違いなくスンの声だった。大好きな男の声をたとえ熱に浮かされていても、聞き間違うはずがない。
 それに、たった今のミニョンの狼狽ぶり。ミニョンは明らかに嘘をついている。オクチョンが意識を失って生死の淵をさまよっている間、ミニョンではない誰かが明らかにここにいたのだ。
 しかし、この場で問い詰めて、心優しい親友を困らせるつもりはオクチョンにはなかった。
 スンは何者なのか。その正体は遠からず明らかになる。オクチョンには予感があった。
 ちなみに、今回の騒動は重く見られ、事後、後宮中の女官が一堂に集められ、提調尚宮から訓戒があった。
―今後、女官同士の諍いは原因がどうあろうと両成敗とし、鞭打ちの上、後宮追放とする。 つまり、どちらが悪いかなど斟酌せず、諍いを起こした者であれば誰であれ、辞職させるという通達であった。
 後宮を統括する後宮女官長としては、これ以上のもめ事はご免だという気もあっただろう。