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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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「何という不吉な。片方しか翼がなく、血にまみれているとは。大王大妃さま、それはオクチョンがこの先―」
 言いかけたホン尚宮に、大王大妃は片手を上げて制した。
「今は何も言うな。私は人の未来をある程度見ることはできても、既に定まりし運命を変えることなどできぬ。もし、できるものなら、翼をもがれて血の涙を流す鳳凰に、翼を与えてやりたいものだが」
 大王大妃は溜息をついて、今はひたすら眠るオクチョンを見た。
「憐れな娘だ。この先にどれほどの栄光を得て、どれほどの涙を流すことになるのか。オクチョンよ、私はそなたを気に入っている。願わくば、そなたの運命が私の見た未来とは異なることを願っているぞ」
さて、と、大王大妃がホン尚宮を見た。その意味ありげなまなざしに、ホン尚宮がハッと居住まいを正す。
「私は何事も大王大妃さまの御意のままに。何なりとお申し付け下さいませ」
「今度という今度は、私も流石に見過ごしにはできぬ。私はこのような立場にはあるが、権力というものが昔から苦手でのう。周囲に厄介者呼ばわりされるのをかえって良いことに、後宮の権力争いに首を突っ込むのを控えておった。ゆえに、大妃にも普段は好き放題させているのだが、こたびばかりは放っておくわけにもゆくまいて。王室の長老という立場を少しだけ使わねば収まりそうにない」
 大王大妃はまた息を吐き、続けた。
「繍房に勤務するチェ・ソンイという女官を後宮、いや宮殿から追放せよ。更にはチェ女官の従妹シム女官にも今日限りで暇を出す」
「さりながら、その者は」
 物言いたげなホン尚宮に、大王大妃は瞳を煌めかせた。
「大妃が贔屓している女官であろうがなかろうが、私の知ったことではない。万が一、大妃が楯突けば、この大王大妃が―四代前の王仁祖さまの中殿であった私が命じたと伝えよ」
「承知致しました」
 ホン尚宮が頭を下げ、立ち上がった。高貴な人に後ろ姿を見せてはならないのがしきたりである。ホン尚宮がそのまま静々と退室しようとした時、再び声がかかった。
「ホン尚宮」
「は」
 ホン尚宮がその場に膝を突く。
「あと一つ、頼みたいことがある」
 真っすぐに見つめてくるホン尚宮に、大王大妃が凛とした声音で命じた。
「主上さまを大王大妃殿にお呼びせよ」
「―それは、なにゆえに」
 忠実な側近の問いかけに、大王大妃は婉然とした笑みを送った。
「これまで私が無駄なことを一度として命じたか?」
「いいえ」
 ホン尚宮は畏まって否定した。
「オクチョンの未来はともかくして、これから面白いことになるやもしれぬ。あの高慢ちきな大妃がまたしてもヒステリーの発作を起こすようなの」
「大王大妃さまは国王殿下とオクチョンの間を取り持とうとなさっておられるのですか?」
 大王大妃はゆったりとした笑みを浮かべた。
「以前にも申し聞かせたではないか。人の宿命というものは、介入したところで我らが人間の手で変えられるものではない。私が手を貸そうと貸すまいと、オクチョンと主上は前世からの深い因縁と強い縁で繋がっておる。たとえ何人であろうが、断ち切ることのできぬほどの強い縁をな」
 ホン尚宮ももう、何も言わなかった。ただ眼を伏せ、また静かに後ろ向きに下がり、退室していった。
   
 その時、オクチョンは夢と現の狭間をたゆたっていた。
 夢の中で、彼女は遠い昔に還っていた。彼女は六歳くらいの少女の姿で、野原を走っていた。野原には彼女の好きな紅吊舟が一面に群れ咲いている。雪のように白い清楚な花が至るところに咲いている。
 時折、優しい風が吹き渡り、可憐な花たちが一斉に揺れる。オクチョンは美しい景色に見惚れながらも、一心に走っている。
 けれど、自分がこれからどこに向かおうとしているのかも判らなかった。ふいに視界が開けた。少し前方に川が流れている。満々と水を湛えた川は、幅はさほどではないけれど、流れは速そうだ。
 子どもの頃、溺れかけた川にどこか似ている風景だ。
 怖い。オクチョンは知らず後ずさった。そんなオクチョンの細腕をむんずと?んだ者がいた。
―いやっ、やめて。
 懸命に抗うオクチョンの抵抗など物ともせず、その者は彼女を引っ張ってゆく。オクチョンは引きずられるまま河原へと連れてこられ、そのまま強い力で川へと突き倒された。
―ああっ。
 悲鳴を上げようとしても声が出ないのは、夢の中だからなのか。オクチョンはそのまま逆巻く濁流に呑み込まれた。
 身体だけでなく頭の芯までが烈しい水流でぐるぐると回っているようだ。気分が悪い。このまま自分は死ぬのかと思い始めた矢先、突然、身体がストンと地面に落下するような感覚があった。
 今度は何事かと恐る恐る眼を開くと、自分はもう今の姿、つまり十七歳に戻っている。しかも、ここのところ着慣れた女官のお仕着せ姿だ。
 側には、ミニョンがいた。辺りは一面の闇が垂れ込め、ミニョンが捧げ持つ雪洞だけが唯一の灯りである。
 二人の前には、こじんまりとした建物が見える。灯りも見えず、震撼と静まる殿舎はどこか不気味でさえあった。
―ミニョン、こんな場所が宮中にあったかしら?
 問えば、ミニョンも怯えたような顔で首を振る。
 オクチョンは引き寄せられるように殿舎に向かって歩いた。後ろで、ミニョンが呼んでいる。しかし、オクチョンは自分でも制御できない見えない力に引き寄せられるようにして、殿舎に向かって歩いていた。
 階の下で見上げてみると、その殿舎は荒れてはいるが、かなり立派な贅をこらした作りのようである。
 正面に大きな額が掲げられ、勇壮な手蹟で文字が書き込まれている。
―就善堂。
 オクチョンは扁額に書き込まれた文字を声に出して呟いた。恐らくは、この豪奢な建物の名前なのだとは判った。
 何故だろう、どこかで耳にしたような気がするのに、思い出せない。
 短い階を昇り、両開きの殿舎の扉を開けた途端、桶を逆さまにしたような勢いで何か生暖かいものが降ってきた。
―っ、これは何?
 震えながら自らの手足や衣服を見た瞬間、彼女は絶叫した。
 女官の制服が、いや服だけでなく頭から身体中から鮮血がしたたり落ちている。
―いやーっ。
 かぶりを振りながら悲鳴を上げた時、また身体が濁流に呑まれたように回り始めた。
 一体、何が起きているのだろう、自分は本当に死んでしまうのか、いや、もう池に突き落とされて溺れ死んでいるのか。今、見ている凄惨な光景は地獄絵図なのか。
 烈しい揺れが何とか収まり、ふっと眼を開けば、姿だけは十七歳のままに場所は元の紅吊舟の野原に戻っていた。
 ホッとしたのも束の間、オクチョンはまたも愕然とした。清らかな雪のように真白(ましろ)の花たちが鮮血でも浴びたように真っ赤に染め上げられている。
 禍々しいほどの紅に塗(まみ)れた花が風に、揺れる。
 オクチョンは小さな悲鳴を上げ、その場に倒れた。

「―チョン、オクチョン」
 遠くから誰かが呼んでいる。
 私を呼んでいるのは誰なの?
 オクチョンは助けを求めるように手を伸ばす。上手く力が入らない。その手をしっかりと握りしめてくれるひとがいる。
「オクチョン、オクチョン。頼む、お願いだから、眼を開けてくれ」