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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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「あの中にはまだ人がいるの、このままでは死んでしまうわ。助けにいかなければ」
 口早に言えば、男は抑揚のない口調で言う。
「だが、そなた自身も死ぬかもしれないぞ?」
「構わないわ。スヨンを見過ごしにするほどなら、死んだ方がマシだもの」
 若い男は小さく肩を竦めた。
「気性の激しい娘だな」
 更に呟く。
「だが、気の強い女は嫌いではない」
 何故か、その瞬間、胸の鼓動が速くなったような気がしたのは、思い違いだったのか。男は頷いた。
「俺に任せろ」
 駆け出した男の後を彼女は慌てて追う。
「裏の方、厨房から入れば良いわ」
 彼女は男に叫んだ。男は門をくぐり、庭を駆けて今しも燃え崩れようとしている屋敷に飛び込んだ。彼女もそれに続いた。
 少女は厨房の―最早、火の手が回り煙が立ちこめて厨房かどうかさえ定かではない―片隅に駆け寄った。自分の纏うチマを引きちぎり、大きな水瓶に浸す。びしょ濡れになったその布を頭からかぶり、意を決したように後方へと突き進んだ。男はもどかしげに重たげな水瓶を軽々と持ち上げて、頭から水を被った。
「スヨン、スヨンや」
 声を限りに叫べども、いらえはなく、ましてやスヨンらしい人影もない。既に憐れなあの子は力尽きて倒れてしまったのか。心が絶望に染まりかけた時、か細い泣き声が近くから聞こえてくるのに気づいた。
 彼女は男と顔を見合わせた。
「左だ」
 男が叫び走り出す。彼女も後に続き、ほどなく厨房の片隅でうずくまるスヨンを見つめることができた。
「えっ、えっ、うえっ」
 スヨンはすすまみれになって、膝を抱え顔を伏せて泣いていた。
「スヨン」
 彼女が声をかけて手を伸ばすと、縋りつくように抱きついてくる。その小さな身体を思い切り抱きしめ返し、彼女はスヨンの髪に頬を押し当てた。
「良かった」
 熱いものがこみ上げてくるのに耐えていると、傍らで男が囁いた。
「安心するのは無事、外に逃れてからにした方が良い、とにかくすぐここを出るぞ」
 男がスヨンを背に負い、彼女はその後ろからはぐれないように走った。
 途中で何度も焔に包まれた柱が焼け落ち、三人は何とか交わしながら漸く庭に出た。その時、恐ろしい地鳴りのような轟音がとどろき渡り、屋敷がついに崩れ落ちた。
「あとわずかに遅ければ、我らはあの中で生命を失っていただろうな」
 男が溜息をついた。乱れた髪を手でかき上げている。
 スヨンはまだ彼女にしがみついて泣きじゃくっていた。よほど怖かったのだろう。
「もう大丈夫だから、スヨン、泣かないで良いのよ」
 抱きしめ、あやすようにトントンと背中を叩いてやる中に、スヨンは次第に泣き止んでいった。スヨンが落ち着いたのを見計らい、彼女は男に頭を下げた。
「危ないところをお助けていただき、ありがとうございます。若さま(トルニム)が助けて下さらなければ、この子はどうなっていたか判りません」
 心から礼を述べたのに、若い男はクスリと笑った。彼女は少しムッとして男を見上げた。小柄な少女からすれば、若い男は見上げるほど上背があるのだ。
「ここに」
 男がつと手を伸ばし、彼女の頬を撫でた。
「―っ」
 彼女は思わず後ずさりする。
「あなたさまは両班(ヤンバン)、私は奴婢にすぎないかもしれませんが、少し失礼なのではありませんか」
 いきなり頬に触れられ、彼女は憤然として男を睨みつけた。
「済まぬ。確かに慣れ慣れしすぎる行為だったな。さりながら、少し気にした方が良い」
 男は袖から手巾を取り出し、おもむろに差し出した。
「綺麗な顔が滑稽なほど汚れているぞ」
 彼女は渡された手巾で頬を拭った。果たして、白い手巾は真っ黒になった。
「―」
 彼女は恥ずかしさに消え入りたい想いになり、それでも男を見上げた。
「顔が汚れているからと気遣って下さったのですね。私の方こそ、ご無礼を致しました」
「いや、私こそ初対面の女人に対して失礼なことをした」
 両班といえば、この身分社会の朝鮮では我が一番と立場を笠に着て威張っている輩が多い。なのに、この若者は清々しいほど傲岸不遜さがない。それでいて、まだ若いのに、どこか存在感のある不思議な男だ。
「ああ、無事だったのね」
 彼女の背後で、涙声が響く。振り向けば、母が涙ぐんでいた。既に成人に達している息子と娘がいるとは信じられないほど若々しく、美しい。少女の綺麗な眼許などは母親譲りなのだとひとめで判る。
「どなたさまかは存じませんが、娘を助けていただきまして、本当にありがとうこざいます」
 母が泣きながら幾度も頭を下げる。
「母御も無事で良かった」
 男が笑顔で言い、母にも軽く頭を下げた。
「それでは、俺はこれで失礼する」
 少女は愕きで固まったまま、動けないでいた。両班の男が奴婢の母に頭を下げた!
 それは到底、信じられない光景だった。
 まだ愕きで縫い止められたままの彼女は、ただ茫然と立ち尽くして男の背中を見送った。
 数歩あるいたところで、男の歩みが止まった。首だけねじ曲げるようにして彼女を見つめる。
「そなたの名は?」
「張玉貞(チャン・オクチョン)と申します」
「オクチョン、か。美しいそなたには似合いの名前だ」
 男は一瞬、涼やかな美貌に笑みを浮かべ、そのまま立ち去っていった。
 少女―オクチョンはそっと吐息を零した。まるで春の嵐のように現れ、誰もが怖れて近づかぬ炎の中に飛び込んでセギョンを救った男。伯母にしょっちゅう
―賤しい身分の癖に。
 と蔑まれている母にもさりげない礼儀をもって接した人。
 何より、深くて澄んだまなざしをしていた、あのひとにまた逢えることはあるのだろうか。
 たった一瞬で、あの不思議な優しい男の存在はオクチョンの心に刻み込まれてしまった。 
 けれど、と、彼女は自分を戒めた。あの方の着ていたものは誰が見ても清国渡りの絹製だ。きっと上流両班の子息に違いない。間違っても、通訳官の娘で、しかも母が隷民の自分と縁がある男ではないだろう。
 両班なのに少しも偉ぶったところがなくて、身分を問わず優しい方。それはオクチョンが幼い頃から憧れてきた理想像そのままの人だった。あの男の深いまなざしを見た瞬間、本当に瞳の中に吸い込まれてしまいそうで、怖いくらいだった。
 ずっと、あのまなざしに見つめられていたい。それは絶対に叶わない夢だ。そのくらいはオクチョンにも判っていた。
 この時、オクチョンは十七歳、火事の最中に出逢った若い男にひとめで心奪われた―。
後に彼との出逢いを繰り返して思い出す度、オクチョンは思った。
 あの方はまさに春の嵐のような方であった、と。ある日突然、オクチョンの前に現れ、彼女とスヨンを救い、名も告げぬままに去っていった。たった一瞬で自分の心を鷲掴みにし、嵐のように駆け抜けていったのだ。
 けれど。けして繋がらぬと諦めていた細い縁の糸が繋がったことが我が身にとっては幸せだったのかどうか。
 あのまま二度と出逢うことがなければ、自分の人生も随分と変わっていたことだろう。穏やかな家庭を築き、心安らぐ日々を送れていたかもしれない。