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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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 涙眼になって拳で鳩尾の辺りを叩きつつ、彼女は考えた。
 こうなってみれば、スンから逢い引きの誘いが届いたのは好都合といえるかもしれない。彼に一刻も早く、気をつけてと伝えなければならない。
 
 夕刻になった。
 オクチョンはそれまでの時間、ずっと気もそぞろに過ごした。仕事でも詰まらない、普段なら絶対にしないような失敗を繰り返した。大王大妃にも呼ばれ、いつものように肩や脚を揉んだら、
―今日はいつもと案配が違うな。いかがしたのだ?
 と、訊ねられる始末である。それは祖母が孫娘を気遣うような慈愛に満ちたものではあったけれど、もちろん、スンとのことをたとえ大王大妃にでさえ告げられはしない。
 オクチョンは適当に言葉を濁した。優しい女主人を騙すのは心が痛むものの、ここでうかと真相を話してしまってはスンに申し訳ない。
 長い初夏の陽が傾き始めるのをそわそわとしながら待ち、黄昏時の気配が辺りに漂い始める時刻には殿舎を飛び出した。
 蓮池に向かって駆けてゆく彼女の姿を、ミニョンが気遣わしげに見送っていたのも知らなかった。
 スンに大切なことを伝えなければと思うのに、彼とまた逢えると考えただけで、はしたなくも心は浮き立ち鼓動は速くなる。我ながら、何という現金なのかと呆れるけれど、心はもうとっくに蓮池で待つはずのスンの許へ飛んでいた。
 人気のない辺りまで来ると、オクチョンは周囲をそっと窺った。誰もいないのを確認して、チマの裾をえいやっと端折(はしょ)る。そのまま全速力で走り始めた。
 子どもの時分から、使用人の男の子たちに混じって外を駆け回っていたオクチョンである。走ったり身体を動かしたりするのには、ちょっとした自信があるのだ。
 蓮池が見え始め、彼女の心ノ臓は痛いくらいに速く打ち始める。しかしながら、生憎と蓮池のほとりには人影は見あたらない。
 どうやら、スンはまだ到着していないようだ。それでも、オクチョンは小声で呼んだ。
「スン、スン」
 だが、いらえはない。夕刻といっても、時間帯はある。スンは遅めに来るのだろうと待っていても、やはり彼は来ない。
 いつも約束はきちんと守る男で、几帳面な性格なのだとは知っている。もしや急用ができて、来られなくなったという可能性も否定はできない。
 夕刻と文には書いていたから、とりあえず陽が落ちるまでは待ってみようと、オクチョンはその場で所在なげに佇んだ。
 ふいに一陣の風が身の側を通り過ぎ、オクチョンは眼を瞑った。
 ふうっと、腹の底から深呼吸してみる。涼やかで清廉な風が蓮池の面を子どものつむりを撫でる母の手のように優しく通り過ぎる。
 池面を飾るあまたの蓮花たちは既にこの刻限、すべて蕾になっていたけれど、それはそれで美しい。
 今、折しも西の空に沈みゆこうとしている太陽が今日という日の最後の輝きを見せていた。惜しみなく降り注ぐ蜜色の暖かな光が池の蕾たちを朱(あけ)の色に染めている。
 朝の一斉に開いた蓮花はこの世のものとは思えぬ美しさだが、こうして夕焼けの色に一面染め上げられた蓮池もまた格別だ。オクチョンは呼吸するのも忘れ、しばし光と花たちが織りなす夢幻の光景に見蕩れた。
 朝の蓮池が清浄とした荘厳な美しさなら、さしずめ黄昏時は、見る者を慈愛に満ちた母の懐にいだかれたように癒してくれるだろう。どこかホッとするような心安らぐ風景だ。
 瞳を閉じて清らかな風を身体一杯吸い込んでみる。温かな色に染め上がった蓮池のほとりに立つ彼女のたおやかな姿は、さながら宮廷絵師が丹精込めて描いた美人画のようである。
 その臈長けた横顔には、既に入宮前の彼女にはなかった色香が漂っていた。愛する男に出逢い、彼を全身全霊かけて愛するオクチョンは最早、恋を知らぬ少女ではない。彼と出会って恋に落ちてからというもの、オクチョンは少女から大人の女への階(きざはし)を全速力で駆け上っていた。当人が知らないだけだ。
 夕暮れ時の蓮池の美しさを存分に堪能し終える頃には、周囲の風景はもう薄墨を溶き流したような宵闇に沈もうとしていた。
 空を仰げば、熟れた果実のような太陽はとっくに消え、淡い藍色に染まっている。女人の眉のような繊細な月が空に昇り、よく研いだ小刀のように見える細い月は、オクチョンに何故か危うさを感じさせた。
 この胸騒ぎは何だろう。動悸が速くなる。けれども、これは大好きなスンに見つめられて感じる、いつものあれではない。
 彼女が手のひらで胸を押さえたまさにその時、背後でガサリと物音が響いた。低木の茂みをかき分ける音は、スンの訪れを知らせるものに違いない。
「スン?」
 オクチョンが振り向くのと、後ろからドンと強い力で前方へ押し出されたのは、ほぼ時を同じくしていた。
 突き飛ばされた反動で、身体が前のめりになる。意思の力で両脚を踏ん張ろうとしたところ、また今度は先刻以上の物凄い力で背中を押された。
「ああっ」
 悲鳴だけ残し、オクチョンの華奢な身体はそのまま蓮池に向かって落ちていった。
 オクチョンは水の中でもがいた。運動は得意だが、泳ぐのは昔から苦手だった。
 五歳の頃、近所の子どもたちと郊外の川まで泳ぎにゆき、溺れかけたことが今も苦手な記憶となっている。以来、川には怖くて入れなくなった。
 人工の池とはいえ、この蓮池が底知れず深いことは誰でも知っている。
 懸命に手足を動かそうとしても、どんどん水を吸って重たくなっていく衣服や髪の毛が余計に邪魔をする。
 オクチョンは次第に疲れ果て、もがくのを止めた、というより、力がなくなったのだ。
―私、一体、どうして―。
 何故、どうしてという想いがぐるぐると渦巻いた。池に突き落とされるような悪いことをしただろうか。誰かの恨みを買うようなことは?
 刹那、セギョンの笑顔が鮮やかに眼裏に閃いた。いつになく猫撫で声を出していたセギョン、オクチョンは彼女の笑顔を実は初めて見たといって良い。
 嘘だ、すべては嘘だったのだ。セギョンから渡されたあの手紙は真っ赤な偽物だったに相違ない。スンが書いたにしては、あまり教養がある人の手になるものとは思えない手紙だったのにも今なら頷ける。
 恐らく、あの文は彼が書いたものではなかった。だから、違和感を感じたのだ。
―幾ら何でも、そなたは人が良すぎるぞ。
 いつだったか、スンに言われた科白を今更ながらに思い出した。
―スン、私って馬鹿ね。あなたにあれだけ忠告されたのに、また、うっかりセギョンを信じてしまったわ。 
 最後にオクチョンの瞼に浮かんだのは、大好きな男の眩しい笑顔だった。
 国王さまのお顔は美しすぎて眩しいというけれど、私にとってはスンの笑顔こそ眩しくて見ていられない。
 大好きよ、スン。私がいなくなって、あなたは淋しいと泣いてくれるかしら。
 オクチョンは心で大好きな男に囁きながら、意識を手放した。

 オクチョンが池に突き落とされた時、実はその場に居合わせた者は二人いた。一人はオクチョンを悪意を持って陥れようとする者、いま一人はミニョンであった。
 ミニョンはオクチョンが意気揚々と殿舎を出たそのときから、ずっと後を付けてきていたのである。