炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻
「そのお姿を今も忘れぬと、養母は死ぬまでよく話していたものよ」
話し終えたコン尚宮は、遠い瞳で蓮池を見ている。オクチョンの白い頬をひとすじの涙が流れ落ちた。
「大王大妃さまは、王さまに恋をされたのですね」
けして実らぬ、切ない恋。
何故、その時、自分がそこまでかつての大王大妃の哀しい恋に共感したのか。オクチョンは自分でも判らなかった。
「女の運命とはげに儚いものよ」
コン尚宮が呟いた。
「大王大妃さまも王室に嫁ぐことなどなければ、お子にも恵まれて今頃は孫君にも囲まれていたであろうに」
コン尚宮の言葉は、道理であった。たとえ名門両班の令嬢であろうが、奴婢の娘であろうが、女の運命は男次第で変わる。大王大妃も別の男に嫁いでいたら、或いは良人である仁祖に愛されていたら、もっと別の人生があったかもしれなかった。
「それでも、我が君のお優しく慎ましやかなご気性は昔から変わらぬ。養母はよく言っていたものだ。大王大妃さまの美しいお心は、長い風雪に耐えて開く春の花のようだと申していた」
「長い風雪に耐えて咲く春の花」
オクチョンはコン尚宮の言葉をなぞった。確かに、大王大妃の泰然とした佇まい、生き方は冬を耐え抜く花の風情がある。穏やかであるのに、凛然としている。慎ましやかでいながら、婉然と咲き誇っている。
「春の花は、長い冬という哀しみに耐えて咲くからこそ、より美しく気高いのかもしれませんね」
オクチョンの言葉に、コン尚宮が微笑んだ。
「そうだな。あのお方の美しいお心は生まれつきのものであるに違いはないが、生き抜かれてきた厳しく長い日々がその美しさを更にいや増した。それもまた確かであろう」
コン尚宮は笑いながら言った。
「そなたもたまには良いことを申すものだ」
「まっ、尚宮さま、たまにはだけは余計ですよ」
と、相変わらず物怖じしないオクチョンの物言いに、コン尚宮は苦笑いだ。
と、コン尚宮が唐突に言った。
「どうやら、お二方のお話も終わったようだ」
オクチョンは、四阿の方を見た。巨大な池の丁度、オクチョンたちがいる真反対に、その四阿はある。池の面に建物が張り出して作られており、ここからでは、あたかも四阿が池に浮かんでいるようにも見える。
極彩色に塗られた優美な屋根付きの四阿には二つの人影が見えた。一人は長身の若者らしい姿で、紅い龍袍を纏っているのが遠目にも判る。もう一人は言わずと知れた大王大妃だ。
国王らしき青年は大王大妃に向かい、頭を下げ丁重に挨拶した。国王が側を通るかと内心、オクチョンは期待したのだけれど、生憎と若い王は四阿を出ると、オクチョンたちがいるのとは逆方向の道を辿って帰っていった。国王の伴も数人と少ないようで、きびきびとした足取りで帰路を辿る国王の後を老齢の内官や尚宮が慌てて追っている。
既にスンという恋人がいるから、別に王さまに見初められたいという野心があったわけではない。ただ、眩しくて顔も見られないという美男だという国王、その美麗な顔を見てみたいという若い娘らしい純粋な好奇心からだった。
ほどなく、大王大妃も対岸づたいにゆっくりと戻ってきた。コン尚宮とオクチョンは大王大妃を出迎えにいった。
「随分とお話が弾んでおられたようでございますね」
コン尚宮がにこやかに話をふると、大王大妃は頷いた。
「主上は祖母(ばば)想いの孝行息子だ。ほれ」
大王大妃が嬉しげに見せたのは、薄紅の百合の花である。
「まっ、綺麗ですこと」
「ここに来る道すがら、咲いていたのを手折られたそうじゃ。この祖母にくれると仰せでのぅ」
笑み崩れる様は、本当にひ孫が可愛くてならないといった表情だ。しかし、この曾祖母とひ孫は実際に血の繋がりはない。
血の繋がりがない二人がいかに近しい間柄か、粛宗がこの不遇な曾祖母を大切にしているかが判る出来事だ。
「主上さまのように凛々しくお若い殿方から花を贈られる大王大妃さまは、世にもお幸せな女人でおわしますね」
長年仕えてきたコン尚宮ならではの軽口に、大王大妃は更に目尻の皺を深めた。
その時、オクチョンは大王大妃の纏う香りがいつもと違うのに気づいた。
「オクチョン、どうかしたか?」
めざとく気づいた大王大妃が問いかけ、オクチョンは慌てて頭を下げた。
「いいえ、何でもありません、大王大妃さま」
けれど、何かが違うと告げていた。大王大妃が好んで使う香は、優しい花の香りだ。先ほどのコン尚宮の言葉ではないが、長く厳しい冬を耐えて咲く春の花、まさにそんな香りである。
しかし、今、大王大妃からかすかに漂う香りは、その香りではなく別のものだ。
―この香りは。
オクチョンは弾かれたように面を上げた。この香りは、スンの衣服から香るものととてもよく似ている。スンも派手やかな香りは好きではないらしく、その点は大王大妃と好みは似ているものの、香りそのものはまったく違う。
スンの衣服から漂うのは、爽やかな樹木の香りだ。丁度、新緑の頃の清々しい若葉のような。彼の清らかで凛々しい美貌にふさわしい香りである。
その香りが何故か大王大妃の方から風に乗って流れてくる。
この香りが大王大妃のものでないとすれば、考えられるのは若き国王の纏っていた香りに相違ない。
どうして、国王さまとスンの纏う香りが同じなのだろう。いや、高貴な若い男性が好む香りというものは自ずと似てくると考えた方が自然だし、近しい親戚なら当然、行き来もあるだろうから、香の譲り渡しなどもあるだろう。
何も不自然ではない。
そう思いながらも、どこかで首を傾げる自分がいる。オクチョンがもう一度四阿を見た時、当然ながら、そこに粛宗の姿はなかった。
時折、気まぐれに水面を吹き渡る風に、蓮の蕾がざわめく。そのざわめきは、あたかもオクチョンの心まで妖しく騒がせるようであった。
意外な人物が接近してきたのは、その二日後であった。その朝、オクチョンの室をセギョンが訪ねてきた。
オクチョンはスンから贈られた紅の器を手のひらに乗せ、眺めていたところだった。蓋に刻まれたつがいの蝶をまるで恋人の肌に触れるように、愛おしさをこめて撫でていた。
「オクチョン、ちょっと良い?」
オクチョンは急いで紅の器を文机の引き出しにしまいこんだ。だが、セギョンはぬかりなくオクチョンが見事な螺鈿細工の器をしまうのを見ていた。
なのに、そんなものは知らん顔で、オクチョンに話しかけた。
「もちろんよ、入って」
オクチョンは快く承諾し、セギョンを室に招き入れた。
「これ、実家から送ってきたの。良かったら、ミニョンと食べて」
セギョンが眼の前に置いたのは、空色の風呂敷に包まれた平坦な箱だ。彼女は器用に包みを解き、箱の蓋を開けた。
「まあ、美味しそうね」
甘いものに眼がないオクチョンは知らず笑顔になる。
セギョンは微笑んだ。
「あなたにもミニョンにも申し訳ないことをしたわ。だから、せめてものお詫びにと思って、持ってきたの」
「そんな、もう終わったことよ。判ってくれたなら、それで良いの」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻 作家名:東 めぐみ