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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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―やはり出逢うてしもうたか。安堵せよ、そなたとその者の縁(えにし)が切れることはない。むしろ、切っても切り離せぬ深い縁といえる。
 大王大妃はそれ以上、何も言わなかった。ただ、オクチョンに謎めいた言葉をかけただけだった。
―その若者の手をけして放すでないぞ。もっとも、たとえ放したとて、そなたらの縁を断つことのできる者は神仏以外にはおらぬであろうが。
 オクチョンが入宮して、はやふた月余りが流れた。
 暦は六月に入り、王宮の庭園でも季節の花々が美しく咲きそろい、人々の眼を楽しませてくれる。流石に雲の上の国王さまがお住まいの宮城は広く、庭園だけでも迷子になりそうなほどの規模である。
 もっとも、オクチョンはまだ大王大妃殿での仕事をこなすのに精一杯で、到底、優雅に庭園を散歩するゆとりはなかった。とはいえ、お仕えする大王大妃がたまに庭園を散策するのに付き従うため、庭園を見る機会はあるにはあった。
 ある日の昼下がり、大王大妃の伴をして後宮の庭園を歩いていたときである。蓮池のほとりまで来た時、コン尚宮がいつになく鋭い声で言った。
「国王殿下であらせられる。頭を下げよ」
 その場にいたのは、大王大妃お気に入りのオクチョンだけである。大妃は、宮殿内の移動さえ、大勢の伴を引き連れて仰々しく移動する。それに比べ、大王大妃はいつも多くて数人、大概は今日のようにオクチョンとコン尚宮だけを連れている。二人の立場だけでなく、元々の性格の差によるところも大きいに相違なかった。
 オクチョンが慌てて頭を下げるのに、いつもおっとりしたコン尚宮がらしくない厳しい口調になる。
「頭が高い」
 オクチョンは更に深く―地面に頭がつきそうなほどとはいささか大げさだが、下げた。
 だが、コン尚宮の心配は無用だったようだ。大王大妃は蓮池に張り出した四阿(あずまや)に国王その人の姿を認めると、自らいそいそとそちらへ向かった。 
 オクチョンが後を追おうとするのに、コン尚宮は口早に言った。
「必要ない」
 物問いたげな彼女に、コン尚宮は漸く顔をほころばせた。
「大王大妃さまは主上さま(サンガンマーマ)とのおん語らいをそれは愉しみにしていらっしゃる。お二人だけにして差し上げる方が良いのだ」
「尚宮さま、大妃さまと大王大妃さまは犬猿の仲なのは誰しも知っています。国王殿下は大妃さまの実の息子なのに、何ゆえ、大王大妃さまをあのように慕っておられるのでしょう」
 オクチョンが思ったままを言うと、コン尚宮は苦笑した。
「相変わらず、思うたままを会釈なく言う娘だ。そのようなこと、まかり間違っても他に洩らすでないぞ。大妃さまのお耳に入れば、今度こそ、そなたはただでは済まぬからの」
 釘を刺した上で、コン尚宮はオクチョンの問いに応えてくれた。
「大妃さまにとって主上さまはご自慢のご子息だ。ゆえに、殿下がご幼少のみぎりから、大妃さまは考えつくありとあらゆる帝王教育を殿下に授けられた。もちろん大妃さまにとっては、それが親の愛というものであったろうが、子というのは縛りつけるだけでは真っすぐに伸びゆかぬ。成長なさるにつれ、大妃さまの束縛を厭われた殿下が息抜きをなさることができたのが我ら大王大妃さまの御許ということよ」
「お若くして、お歳を召した国王さまに嫁がれ、大王大妃さまはお幸せであったのでしょうか」
 またしても、度肝を抜くような問いをしたオクチョンに、コン尚宮は眉をひそめた。
「これ、無礼がすぎるぞ」
「申し訳ございません」
 神妙に謝ったものの、オクチョンはどうにも気になっていたのだ。
 スンとの恋に思い悩んでいた彼女を、大王大妃は優しく気遣ってくれた。
―その男の面影が離れず、食べるものも食べられぬようになる。それは恋という病ではないのか?
 あのときの言葉は、まさしく恋をした女にしか判らぬ心境であった。あの瞬間、オクチョンはもしや心淋しく過ごしてきた大王大妃にも秘められた恋があったのではと想像した。いや、むしろ、子にも恵まれず不遇をかこってきたひとゆえに、そのような恋の一つや二つあった方が彼(か)の方には幸せであったはずと、オクチョンは思うのだ。
 コン尚宮が溜息をついた。
「まったく、そなたの好奇心は、とどまるところを知らぬようだ」
 オクチョンの胸中を読んだかのような科白である。オクチョンは流石に身を縮めた。
「私が大王大妃さまにお仕えするようになったのは、まだ少女の頃だ。その頃、既にご夫君の仁祖さまは崩御あそばされていた」
 コン尚宮の養母が大王大妃の王妃時代の懐刀と呼ばれた信頼厚い側近である。コン尚宮はその姪に当たり、伯母の養女となり、後宮に上がったのだ。
「ゆえに、この話は私が見聞きしたものではない、養母(はは)から聞いた話だ」
 そう前置きして、コン尚宮は語り始めた。大王大妃の良人となった国王仁祖は結婚時、既に四十を過ぎていた。しかし、美形揃いの王族に洩れず、美しい容姿をした人だったという。四十を過ぎていても、傍目には三十そこそこにしか見えなかったほどの男ぶりだった。
 王妃となった時、大王大妃は十四歳、二人の年齢差は二十九歳で、仁祖は王妃の父より年上だったのだ。それでも、少女だった大王大妃はひとめ見た男ぶりの良い国王が忘れられなくなった。
「大王大妃さまはご夫君に恋をされたのだ」
 コン尚宮がどこか遠い視線で呟いた。
 蓮池には折しもあまたの蓮花が群れ咲いている。広大な池面をたくさんの蓮が埋め尽くしているのは、見事としか言いようがない。花は純白もあれば、薄紅色のものもあり様々だ。昼も近いとて、大半の花は蕾を閉じかけていたが、それはそれでまた眼を奪われる美しいものだ。
 あたかも蓮花の模様を色とりどりの美しい糸で丹念に刺繍した一枚の彩布をひろげているようでもある。
 コン尚宮のまなざしは眼前の蓮池に向けられているようでいて、実は、はるかに遠かった。
「さりながら、それは彼の方にとっては辛く哀しい恋の始まりだった」 
 四十過ぎの仁祖には寵愛を欲しいままにした貴人超氏を初め、たくさんの側室がいた。十四歳の幼い王妃に王は眼もくれなかった。
 深窓の令嬢として育てられたがゆえに、大王大妃は恋というものを知らなかった。未知であったがゆえに、憧れから始まった恋は余計に烈しく燃え上がっていく。
 どれだけ王の気を惹こうとしても、失敗に終わった。色香溢れる美姫を見慣れた仁祖には、年端のゆかぬ少女が精一杯背伸びしている姿は、退屈でしかなかったのだろう。
「養母はいつも言っていた。王さまが他の女人を召された翌朝、王妃さまが一人で泣いていらっしゃるお姿を自分も胸が潰れる想いで見ていたとな」
 やがて、仁祖の死により、大王大妃は辛い片想いから解放されることになった。それでも、当時王妃だった彼女は仁祖の骸に取りすがり、いつまでも泣いていたという。仁祖にさんざん寵愛された側室たちは意外なほどに淡々として、亡骸に寄りつきもしなかった。棺に入った亡き王との最後の別離も、おざなりに交わしただけだった。それに引き替え、見向きもされなかった若い王妃が最後まで物言わぬ王の側に付き添い、頬を撫でながら、しきりに何かを話しかけていた。