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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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 もう一人の自分が自分に囁いた。たった今、口にしたばかりの科白が真っ赤な偽りだとオクチョンは知っている。
 本当は彼に取りすがって言いたいくせに。
―私だけを見て。
 と。
 立場上、たくさんの妻が必要だなんて知らない。?妻?と呼ぶ女は私一人だと言って。私だけを誠実に一生、愛し抜くと誓って欲しい。
でも、彼を哀しませたくないから、自分の気持ちに気づかないふりをしよう。
 スンの腕が伸びてきて、引き寄せられる。間近に彼の綺麗な顔が迫っていた。互いの呼吸すら聞こえるほどの距離に、大好きな男がいる。
 オクチョンは知らず眼を閉じた。温かな温もりが彼女の唇に落ちてくる。小鳥がついばむような口づけ。その優しさにまた、涙が溢れる。すべらかな頬を流れる涙をスンが唇で吸い取ってくれる。
 こんなにも好きなのに、あなたを全身全霊かけて愛しているのに、あなたは私だけを見てくれるとは言ってくれないのね―。
 二人は確かに求め合い、愛し合っていた。スンの誰よりも彼女に側にいて欲しいという想いにも嘘はなかったろう。
 ただ、二人の考える幸せとは、最初から明らかに違っていた。それがやがて、遠い未来に大きな不幸の元となると察するには、この時、二人はあまりにも若かった。
 口づけは長かった。息苦しさに喘げば、彼は止めてくれるどころか、口づけはますます深くなった。わずかに開いた唇の隙間から舌を差し入れられ、絡められる。あまりのことに愕く彼女には頓着なしに、逃げ惑う舌を絡められ、たっぷりと口唇を吸い上げられる。
 最初は怯えていたオクチョンも、いつしか力を抜いて彼を受け入れていた。
 初めての淫靡な体験に、もやもやとした心の想いも霧散してしまう。彼の唇から熱が感染ったかのように、オクチョンも唇だけでなく身体が熱を帯びてきた。
 彼に口づけられていると、まるで身体の奥の方で無数の蝶が羽ばたいているような恍惚りとした気持ちになるのだ。
「好きだ、オクチョン」
 スンの声も熱にうかされている。一度離れた唇は、彼に熱っぽい瞳で見つめられた後、再び塞がれた。初めての口づけに夢中になりながら、何故かオクチョンは涙を流していた。
 せめて、今だけは、この刹那を信じたい。彼のあの魅惑的な瞳の中で我を忘れるほど溺れたい。
 先のことは判らないけれど。
 
 月夜の銀花〜契り〜

その後、スンからは別れ際に約束してくれたように、脚の傷に効く塗り薬が届けられた。
 薬はホン尚宮自らの手によってオクチョンの室に届き、オクチョンを恐縮させた。
―監察尚宮さまよりの賜りものだ。
 何故、スンがわざわざ手を回して監察尚宮からということにしたのか、オクチョンは理解できなかった。
 薬は白磁の小さな器に入っていた。届けられたのは薬のみではない。もう一つ、似たような容器が小さな牡丹色の巾着に入っていた。
 その容器は螺鈿細工で牡丹の花とつがいの蝶が描かれている豪奢なものだ。蓋を開け取ると、艶やかな紅が入っていた。
―この紅をつけて、俺に会いにきて。
 スンの囁きが現実に聞こえてきたようで、オクチョンは一人で頬を上気させたものだ。
 紅は、鮮やかな珊瑚色で、顔を近づけると甘い花のような芳香が鼻腔をくすぐった。
 塗り薬はとても良く効くもので、膿を持っていた傷は数日で痛みも取れ、愕くことに傷跡も殆ど残らないほど綺麗に癒えた。さすがは王族だ、よほど高価な薬だったに違いない。
 彼は惜しげもなく高価な薬を自分のために贈ってくれたのだ。今は彼の真心を信じるしかなかった。
 オクチョンはスンと何度か忍び逢った。大抵は初めて口づけを交わしたあの場所で、四半刻ほど慌ただしく過ごすだけだった。あの辺りは大王大妃殿にも近く、昼間とて殆ど人気はない。
 スンはいつも上物の衣装を纏い、彼らしい貴公子ぶりは変わらない。しかし、いつも帽子を目深にかぶり、人目をはばかるようなのが気になった。
―あの紅をつけてきてくれたんだな。とてもよく似合っている。
 スンに贈られた紅をひいていくと、彼はとても歓んだ。といっても、折角塗った紅はすぐに台無しになってしまった。
 逢うなり、彼女の唇をスンが貪るように奪ったからだ。迸るほどの情熱を見せるくせに、スンの態度はどこか不自然だ。
 塗り薬や紅を匿名で、しかも監察尚宮の名を借りて届けたところを見ても、何かしら彼の心を疑ってしまうようなところがある。
 自分との仲は他人に知られては困るようなものなのだろうか。オクチョンの中で、かすかな疑念が兆した。
 何人かいる妻の一人であることは受け入れた―つもりだ。立場上、何人かは妻を娶らなければならないのだとも、誠実に話してくれた。だから、辛くても事前に覚悟を決めることはできた。
 王族は後継者を残し、王室の血脈を次代に伝えなければならない。それは王位継承権を持つ王族男子であれば尚更だ。だとすれば、スンは当代の国王粛宗にはかなり近い、もしかしたら従兄弟くらいにはなるのかもしれない。
 国王の従兄弟だとすれば、スンの立場は相当に重いものだ。そんな高貴な人に自分のような隷民上がりは本来なら、近づくことも許されない。
 もしや、彼はこの期に及んで心変わりをしたのだろうか? 国王に近い血筋を持つ王子が下っ端女官など相手にできないと―。だから、自分との仲が公になっては困ると、いつもあんなに人目を気にしているのかもしれない。
 考え始めると、どんどんと悪い方へ思考は流れていって、最後は一人で泣いてしまうことになる。親友のミニョンはそんなオクチョンを心配し、しきりに何があったのかと訊ねてくる。けれど、ミニョンにさえも、スンのことは話せなかった。
 スンがオクチョンとの付き合いを隠しておきたいのが判る以上、彼の立場も考えれば、ミニョンに話すことはではなかった。
 妻になって欲しいとあれだけ熱心に求婚しておきながら、あの後、スンは結婚についても二人の未来についても、おくびほども口にしない。オクチョンの不安は深まるばかりだった。最近では、食べるものも喉を通らず、夜も満足に眠れない。あれほど食欲旺盛だった健康な若い娘が見る影もなく痩せてしまった。
 上司のホン尚宮もオクチョンの激やせに気づき、大王大妃にまで相談したらしい。大王大妃にも呼ばれ、優しく理由を問いただされたが、オクチョンは何も言えなかった。
 ただ、うつむいて涙を堪えるオクチョンにも大王大妃は問うた。
―その男の面影が離れず、食べるものも食べられぬようになる。それは恋という病ではないのか?
 ズバリと核心をつかれ、オクチョンは恐れ入って平伏した。
―私の口からは何も申し上げられません。その方の立場や体面にも関わることです。
 応えると、大王大妃は溜息をついた。
―そなたの恋い焦がれて止まぬ男とは、もしや秀麗な面立ちの、蒼色の服がよく似合う若い貴公子ではあるまいの。
 オクチョンは硬直した。スンは大抵、初めて逢ったときに纏っていた蒼いパジを着ている。
 何故、大王大妃がスンを知っている、いや、自分たちのことを知っているのか。目顔で問えば、目尻に刻まれた皺をいっそう深くし、大王大妃は優しげに微笑んだ。