炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻
幼い頃、粛宗は大妃の自慢の息子であった。先代顕宗の第一王子として生誕し、幼くして世子に立てられ、年少で即位した。オクチョンが言ったとおり、明聖大妃はこの世の女としての幸せをすべて手に入れたような女性であった。その点、十四歳で四十過ぎた仁祖の後妻となり、ついに実子にも恵まれなかった大王大妃とは同じ高貴な女性ながら、はっきりと明暗を分けた人生だ。
幼い王子は成長するにつれ、利発さを表し、母の大妃を歓ばせた。とはいえ、王子はいつまでも幼子ではない。いつしか一人前となった粛宗は母の言うなりになる息子ではなくなった。
大妃が倒れるのは、大抵、粛宗が大妃の言い分に従わなかったときである。ゆえに、大妃が倒れても、お付きの尚宮たちは比較的落ち着いて対処していた。
だから、オクチョンも?仮病?だと信じて疑っていなかったのだが。
「違うの?」
問いかけたオクチョンに、スンは頷いた。
「まあ、殆どが仮病だけど、たまには本物のときもある。大体、元々が身体の丈夫な人ではないから」
スンは、まるで自分の母親のことのように言った。オクチョンは頷いた。
「スンは大妃さまとも縁続きになるのだものね。心配なのも判るわ」
―だけど、私は大妃さまをどうしても好きにはなれない。大王大妃さまをあまりにも蔑ろにされているもの。
とは、スンには言わなかった。大妃主宰の宴には、王室の女性はほぼ全員が連なることが多い。王族だけの私的なごく内輪の宴だ。華やかなことの好きな大妃らしいといえばいえたが、その宴に大王大妃が招待されることはなかった。
大妃側は
―お歳を召した大王大妃さまにわざわざお越し頂くのは、かえって恐縮というもの。
と、もっともらしい理由をつけているけれど、大妃が大王大妃を嫌っているのを知らぬ者はいない。
考えに沈むオクチョンの耳を、スンの声が打った。
「王にも親はいる。オクチョンが母御を大切なように、王も大妃さまを大切だと思われているのだろうな」
「そうね」
その意見はもっともだと思ったので、オクチョンは頷いた。ただし、その後で余計なひと言を付け加えたが。
―たとえ、どんな母親でもね。
それにしても、スンは、どのような立場の人なのだろうと、改めて思った。今の発言からも国王や明聖大妃寄りの立場には違いないだろうから、粛宗のかなり近い血縁、王族なのだろうか。だとしたら、余計にオクチョンなどは近寄れもしない高貴な人ではないか。
いずれにせよ、彼との縁は、これまでだ。オクチョンは袖からずっと大切にしてきたものを取り出した。
「スン、これを返そうと思って」
それは、他ならぬ彼自身から借りた手巾であった。ひと月余り前、彼と花見を愉しんだ夜、彼がオクチョンの涙を拭いてくれた―実際はオクチョンがその手巾で洟をかんだのだ。
「それは」
スンが手のひらを差し出して受け取ろうとして、引っ込めた。
オクチョンは彼を恨めしげに見た。
「何よう、ちゃんと洗ってるから、安心して。もう鼻水はついてないから!」
途端に、スンが声を上げて笑い出した。
「やっぱり、オクチョンは考えもしないことを言う。俺が受け取らなかったのは汚いからとかではないよ」
「なら、何で?」
怒ったように言うオクチョンに、スンは優しい笑顔を浮かべる。
「この手巾、ずっと持っていたの。いつか、どこかであなたと逢えたなら、渡そうと思って。でも、本当は二度と逢えないと思っていたから、今日は逢えて嬉しかった」
少し恥ずかしかったけれど、これが最後だと思って口にした。
「本音を言うと、嬉しいようでもあるし残念なようでもあるわ」
「それは、どういう意味だい?」
もどかしそうに言われ、オクチョンは応えた。
「あなたの手巾を持っていると、あなたの側に―ずっとスンの側にいるような気がしたから」
二人の間に沈黙が漂った。オクチョンは赤くなった顔を彼に見られたくなくて、顔を上げられない。
「オクチョン」
名を呼ばれ、恐る恐る顔を上げた先に、これも紅潮したスンの顔があった。
「オクチョンは可愛い顔をしているのに、男の心を惑わす妖婦かもしれない」
その言葉には、彼女は本気で怒った。
「私が妖婦ですって? どうして、そうなるの」
「男は女にそんな台詞を囁かれたら、一も二もなく堕ちる」
「堕ちる? どこかの穴に落ちるの? 私は落とし穴を掘ったりはしないわよ?」
無邪気に言うオクチョンに、スンはまた腹を抱えて笑い出した。
「オクチョンは本当に面白い女だ。そなたといると、俺の方が年下だなんて信じられない」
スンはしばらくまだ笑っていた。涙目になるほど笑われて、オクチョンは流石に頭に来た。
「本当に失礼なんだから、もう」
プリプリと怒っていると、スンが微笑んでこちらを見ている。いつになく熱を孕んだまなざしに、また鼓動が跳ねた。
「良いか、そんな男殺しの台詞は俺の前でだけ言うんだぞ? 絶対に他の男に言ってはいけないよ」
「へ? 男殺し? 私、誰かを殺したりはしないわよ、スン―っ」
言いかけたオクチョンはいきなりまたスンに抱きしめられた。
「ずっと一緒にいたいなんて台詞は、他の男には言うな、俺にだけ言ってくれ」
耳許で囁いた彼の声が少しだけ掠れていたのは、気のせい?
抱きしめられている中に、彼の体熱が感染(うつ)ってしまったかのようで、オクチョンまでボウっとしてきた。オクチョンは慌てて彼の逞しい胸を押しやった。
「良いところになると逃げるヤツめ」
スンがまた訳のわからないことを言い。それでも彼女をすぐに解放してくれる。
オクチョンは陸(おか)に上がったびしょ濡れの犬のように勢いよく首を振った。今は彼に抱きしめられて、恍惚りとなっている場合ではなかった。大切なことを彼に伝えなければならない。
「スン、私、後宮を辞めようと思うの」
この機会を逃せば、二度と彼に逢えないだろうと思うから、伝えられないで後宮(ここ)を去ることになる。だから、今、伝えた方が良い。
刹那、スンの切れ長の眼(まなこ)が大きく見開かれた。
「オクチョンがここからいなくなる?」
「ええ」
彼女は頷いた。
「何か問題でも?」
勢い込んで言いかけたスンが納得したように頷いた。
「そうか、盗人に仕立て上げられようとしたことが原因だな。オクチョン、繍房の女官に仕返しをしたいなら、俺が力を貸してやる。どこか誰も行きたがらない部署に左遷させるとか、その程度なら、大妃さまも大目に見て下さるだろう」
一人でまくしたてるスンをオクチョンは呆気に取られて見ていた。
「それは難しいと思うわよ、スン。大妃さまがその娘を気に入っていらっしゃるのは、刺繍の腕を買っておいでだからだもの。その女官が刺した刺繍入りの服しか、お召しにならないほどのお気に入りだそうだし」
むしろ、繍房から別の部署に鞍替えなどさせようものなら、烈火のごとく怒り狂って、例の発作を十回くらい繰り返しそうである。
オクチョンは宥めるようにスンの腕を軽く叩いた。
「もう良いの。大妃さまを説き伏せるのは国王さまでさえ難しいのに、幾ら王族でも、あなたにできるとは思えない。それにね、その女官に仕返しをしたら、私も彼女と同じ卑劣な人間になるから嫌だわ」
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻 作家名:東 めぐみ