炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻
第一話「哀しみの花」
焔の花の中で〜邂逅〜
熱い。少女は手のひらを額にかざし、上方を振り仰いだ。火の粉をまき散らしながら、大きな焔が燃え盛っている。その恐ろしい勢いは今や彼女の身体をすっぽりと呑み込もうとしている。まさに大きな魔物が我が身を頭から食らおうとしている。
彼女は小さく首を振り、キッと挑むかのような眼で背後を振り返る。
ここで逃げた方が良いのは、誰に言われなくても判っていた。けれど、どうして小さなあのスヨンだけを焔の中に残してゆけるだう? スヨンは彼女にとっては妹のようなものだった。たとえ使用人といえども、彼女はスヨンを心から可愛がっていた。
「お嬢さま(アガツシ)、早くお逃げ下さいまし」
側を駆け抜ける誰かが言った。同じ言葉をかけられたのはもう、何度目だろう。だが、彼女は引きずり出されようとも、ここから動く気はなかった。
油断のない眼つきで周囲を見渡せば、既に家人は使用人も含めて皆、姿を消している。当たり前だ、誰だって自分の生命は惜しいに決まっている。
そのときだった。表から駆け戻ってきたらしい若い下僕が叫んだ。
「お嬢さま、早くお逃げに」
いきなり荷物のように肩に担ぎ上げられ、少女はもがいた。
「放しなさい、中にはまだスヨンがいるのよ」
「可哀想ですが、この焔では助からないでしょう」
力で適うはずもなく、少女は担がれたまま無事、庭から門を抜け表通りに至った。
張氏(チャンし)の屋敷の前は細い道になっている。常なら昼とてあまり人通りは多くないが、今や火事を見ようという物見高い野次馬が群れをなしていた。
「スヨン―」
少女はその場にくずおれるように座り込み、妹のように可愛がっていた幼い下女の名を茫然と呟いた。次の瞬間、声高に叫ぶ。
「お願い、あの中にまだ人が残っているの。幼い子どもがいるの。誰か助けて」
しかし、これだけの見物人がいるというのに、誰もスヨンを助けようとする者はいない。彼女は絶望を宿した眼で大勢の野次馬をひととおり見、更に後ろを振り返った。
紅蓮の焔はますますふくらみ、恐ろしいほどの勢いで屋敷を舐め尽くそうとしている。
彼女の脳裏につい昨日の出来事が浮かんだ。
彼女の父は早くに亡くなり、母と兄と二人、伯父の許に身を寄せていた。伯父は父の兄である。しかし、伯父の妻は事ある毎に、義理の妹親子に辛く当たった。
そもそも彼女の生母は常民(サンミン)ではなく、隷民である。父親は通訳官をしていた中人であったけれど、この朝鮮では父親が中人であっても、母が奴婢であれば生まれた子も奴婢として扱われる。
伯父は弟の忘れ形見を粗略にはしなかったが、彼の妻は何かと冷たく当たった。
―所詮、そなたは奴婢の子ではないか。
身分が賤しいと面と向かって罵られたことは数え切れないほどだ。
勝ち気な彼女などは伯母の顔に向かって唾を吐きかけてやりたかったけれど、内気な母はいつもおどおどと伯母の顔色を窺い、足蹴にされてさえ耐えていた。
小賢しい伯母は、伯父のいないところで、彼女たちに辛く当たるのだ。
昨日も彼女は些細なことで、伯母に叱られた。毎朝、厨房の水瓶を水で一杯にするのは彼女に割り当てられた仕事だった。それを怠けて本を読んでいたところを伯母に見つかり、罰として水瓶を頭に載せて半日立たされ、挙げ句に丸一日ご飯を食べさせて貰えなかった。
食事といっても、どうせ伯父夫婦が食べるものとは違って、使用人と大差ない粗末なものばかりだ。それでも育ち盛りの彼女にとっては、貴重な食事であった。
―幾ら通訳官の家に生まれたからといって、女には学問など不要のもの。難しげな本ばかり読んでいては、余計に生意気になるわ。
伯母は彼女から本を取り上げ、鼻でせせら笑った。
他の使用人たちは同情を寄せてはくれても、所詮はそれだけだ。スヨンだけがこっそりと麦飯で握ったお握りを持ってきてくれた。スヨンはまだ三つくらいの時、張家に来た。若い母親と生まれたばかりの弟と一緒に買われてきて、まもなく赤ン坊だった弟は亡くなった。その後を追うように、母親も亡くなった。
しかし、病死だといわれている母親の死がそうではないことを屋敷中の誰もが知っている。スヨンの母は若く美しかった。未亡人らしい、男心をそそる色香もあった。屋敷の主人である伯父がスヨンの母とひそかに関係を持っていたと露見、激怒した伯母が女を下僕にむち打たせたのだ。結果、スヨンの母は亡くなった。
伯父も伯父だと思う。伯母の惨い所業を知りながら、知らん顔を通している。
彼女は思うのだった。この世に男と女がいる限り、色恋沙汰が絶えることはない。けれど、いつも恋の火遊びで最後に泣きを見るのは男ではなく女の方だ。それが真剣なものであろうが、いっときの戯れであろうが、恋の不始末の責めは女一人に負わされる。
それは理不尽すぎるのではないだろうか。若いながら、彼女は愛におけるこの世の不条理を強く憎んでいた。
幼くして母を失ったスヨンを、彼女は何くれとなく気に掛けてやった。スヨンの世話は屋敷に大勢いる年嵩の使用人たちがしたものの、彼女はスヨンを実の妹のように可愛がり、伯父から貰った貴重なお菓子や玩具などを与えたものだ。
スヨンも幼いなりに彼女を姉のように慕い、伯母から酷い叱責を受け食事抜きにされた日はスヨンがこっそりと握り飯を差し入れてくれるのだ。
そのスヨンがあの焔の中にいる!
少女は唇に歯を立て、うつむいた。人と人の繋がりに身分など関係ない。それに私は主筋とはいえ、あの子と同じ隷民だ。あの子はずっと伯母に罰として食事抜きにされる度、私に内緒で食事を運んできてくれた。伯母に見つかれば、あの子自身が酷い折檻を受けるというのに、危険を顧みずに運んでくれたのだ。
人の価値というものがもしあるとすれば、それは身分などではなく、心の持ちようで決まるのではないか。だとすれば、美しく着飾ることしか頭にない伯母より、スヨンの方がよほど敬い大切にされるべき人間のように思える。
少なくとも、私は絶対に人を身分などで判断はしない。スヨンは大切にされるに値する子だ。
彼女は思い、立ち上がった。やはり、あのまま棄ておくことなどできない。
―私は行かなければ。
意を決して踵を返そうとしたそのときだった。彼女の肩を強く?んだ手があった。
「放してちょうだい」
言葉と共に振り向いた先には、若い男が佇んでいた。大人びて見えるが、実際にはまだ二十歳前、彼女と同年だろう。上物の縹色のパジチョゴリが秀麗な男ぶりに映えている。
彼女は一瞬、呼吸するのを忘れたかと思った。黒い瞳―幾つもの夜をすべて閉じ込めたかのような黒瞳に魂まで絡め取られそうだった。この青年のような深い瞳を持つ男に今まで出逢ったことはなかった。
永遠にも思える一瞬は男の発した言葉で終わった。
「無茶は止めろ」
「無茶ですって」
漸く彼女は男の漆黒の双眸から眼を離した。やはり、このゆきずりの男も幼い奴婢の生命など虫けらほどにしか考えていないのだろう。落胆と共に、わずかでもこんな見かけ倒しの男に魅入られていた自分にも腹が立つ。
焔の花の中で〜邂逅〜
熱い。少女は手のひらを額にかざし、上方を振り仰いだ。火の粉をまき散らしながら、大きな焔が燃え盛っている。その恐ろしい勢いは今や彼女の身体をすっぽりと呑み込もうとしている。まさに大きな魔物が我が身を頭から食らおうとしている。
彼女は小さく首を振り、キッと挑むかのような眼で背後を振り返る。
ここで逃げた方が良いのは、誰に言われなくても判っていた。けれど、どうして小さなあのスヨンだけを焔の中に残してゆけるだう? スヨンは彼女にとっては妹のようなものだった。たとえ使用人といえども、彼女はスヨンを心から可愛がっていた。
「お嬢さま(アガツシ)、早くお逃げ下さいまし」
側を駆け抜ける誰かが言った。同じ言葉をかけられたのはもう、何度目だろう。だが、彼女は引きずり出されようとも、ここから動く気はなかった。
油断のない眼つきで周囲を見渡せば、既に家人は使用人も含めて皆、姿を消している。当たり前だ、誰だって自分の生命は惜しいに決まっている。
そのときだった。表から駆け戻ってきたらしい若い下僕が叫んだ。
「お嬢さま、早くお逃げに」
いきなり荷物のように肩に担ぎ上げられ、少女はもがいた。
「放しなさい、中にはまだスヨンがいるのよ」
「可哀想ですが、この焔では助からないでしょう」
力で適うはずもなく、少女は担がれたまま無事、庭から門を抜け表通りに至った。
張氏(チャンし)の屋敷の前は細い道になっている。常なら昼とてあまり人通りは多くないが、今や火事を見ようという物見高い野次馬が群れをなしていた。
「スヨン―」
少女はその場にくずおれるように座り込み、妹のように可愛がっていた幼い下女の名を茫然と呟いた。次の瞬間、声高に叫ぶ。
「お願い、あの中にまだ人が残っているの。幼い子どもがいるの。誰か助けて」
しかし、これだけの見物人がいるというのに、誰もスヨンを助けようとする者はいない。彼女は絶望を宿した眼で大勢の野次馬をひととおり見、更に後ろを振り返った。
紅蓮の焔はますますふくらみ、恐ろしいほどの勢いで屋敷を舐め尽くそうとしている。
彼女の脳裏につい昨日の出来事が浮かんだ。
彼女の父は早くに亡くなり、母と兄と二人、伯父の許に身を寄せていた。伯父は父の兄である。しかし、伯父の妻は事ある毎に、義理の妹親子に辛く当たった。
そもそも彼女の生母は常民(サンミン)ではなく、隷民である。父親は通訳官をしていた中人であったけれど、この朝鮮では父親が中人であっても、母が奴婢であれば生まれた子も奴婢として扱われる。
伯父は弟の忘れ形見を粗略にはしなかったが、彼の妻は何かと冷たく当たった。
―所詮、そなたは奴婢の子ではないか。
身分が賤しいと面と向かって罵られたことは数え切れないほどだ。
勝ち気な彼女などは伯母の顔に向かって唾を吐きかけてやりたかったけれど、内気な母はいつもおどおどと伯母の顔色を窺い、足蹴にされてさえ耐えていた。
小賢しい伯母は、伯父のいないところで、彼女たちに辛く当たるのだ。
昨日も彼女は些細なことで、伯母に叱られた。毎朝、厨房の水瓶を水で一杯にするのは彼女に割り当てられた仕事だった。それを怠けて本を読んでいたところを伯母に見つかり、罰として水瓶を頭に載せて半日立たされ、挙げ句に丸一日ご飯を食べさせて貰えなかった。
食事といっても、どうせ伯父夫婦が食べるものとは違って、使用人と大差ない粗末なものばかりだ。それでも育ち盛りの彼女にとっては、貴重な食事であった。
―幾ら通訳官の家に生まれたからといって、女には学問など不要のもの。難しげな本ばかり読んでいては、余計に生意気になるわ。
伯母は彼女から本を取り上げ、鼻でせせら笑った。
他の使用人たちは同情を寄せてはくれても、所詮はそれだけだ。スヨンだけがこっそりと麦飯で握ったお握りを持ってきてくれた。スヨンはまだ三つくらいの時、張家に来た。若い母親と生まれたばかりの弟と一緒に買われてきて、まもなく赤ン坊だった弟は亡くなった。その後を追うように、母親も亡くなった。
しかし、病死だといわれている母親の死がそうではないことを屋敷中の誰もが知っている。スヨンの母は若く美しかった。未亡人らしい、男心をそそる色香もあった。屋敷の主人である伯父がスヨンの母とひそかに関係を持っていたと露見、激怒した伯母が女を下僕にむち打たせたのだ。結果、スヨンの母は亡くなった。
伯父も伯父だと思う。伯母の惨い所業を知りながら、知らん顔を通している。
彼女は思うのだった。この世に男と女がいる限り、色恋沙汰が絶えることはない。けれど、いつも恋の火遊びで最後に泣きを見るのは男ではなく女の方だ。それが真剣なものであろうが、いっときの戯れであろうが、恋の不始末の責めは女一人に負わされる。
それは理不尽すぎるのではないだろうか。若いながら、彼女は愛におけるこの世の不条理を強く憎んでいた。
幼くして母を失ったスヨンを、彼女は何くれとなく気に掛けてやった。スヨンの世話は屋敷に大勢いる年嵩の使用人たちがしたものの、彼女はスヨンを実の妹のように可愛がり、伯父から貰った貴重なお菓子や玩具などを与えたものだ。
スヨンも幼いなりに彼女を姉のように慕い、伯母から酷い叱責を受け食事抜きにされた日はスヨンがこっそりと握り飯を差し入れてくれるのだ。
そのスヨンがあの焔の中にいる!
少女は唇に歯を立て、うつむいた。人と人の繋がりに身分など関係ない。それに私は主筋とはいえ、あの子と同じ隷民だ。あの子はずっと伯母に罰として食事抜きにされる度、私に内緒で食事を運んできてくれた。伯母に見つかれば、あの子自身が酷い折檻を受けるというのに、危険を顧みずに運んでくれたのだ。
人の価値というものがもしあるとすれば、それは身分などではなく、心の持ちようで決まるのではないか。だとすれば、美しく着飾ることしか頭にない伯母より、スヨンの方がよほど敬い大切にされるべき人間のように思える。
少なくとも、私は絶対に人を身分などで判断はしない。スヨンは大切にされるに値する子だ。
彼女は思い、立ち上がった。やはり、あのまま棄ておくことなどできない。
―私は行かなければ。
意を決して踵を返そうとしたそのときだった。彼女の肩を強く?んだ手があった。
「放してちょうだい」
言葉と共に振り向いた先には、若い男が佇んでいた。大人びて見えるが、実際にはまだ二十歳前、彼女と同年だろう。上物の縹色のパジチョゴリが秀麗な男ぶりに映えている。
彼女は一瞬、呼吸するのを忘れたかと思った。黒い瞳―幾つもの夜をすべて閉じ込めたかのような黒瞳に魂まで絡め取られそうだった。この青年のような深い瞳を持つ男に今まで出逢ったことはなかった。
永遠にも思える一瞬は男の発した言葉で終わった。
「無茶は止めろ」
「無茶ですって」
漸く彼女は男の漆黒の双眸から眼を離した。やはり、このゆきずりの男も幼い奴婢の生命など虫けらほどにしか考えていないのだろう。落胆と共に、わずかでもこんな見かけ倒しの男に魅入られていた自分にも腹が立つ。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻 作家名:東 めぐみ