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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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 今回は庇ってやれぬという大王大妃の言葉を示すように、オクチョンは罰として鞭打ちの刑を受けた。コン尚宮の前でチマをめくり、脹ら脛をさらして鞭打たれるのだ。四半刻後、コン尚宮の室を出る時、オクチョンの脚は可哀想なほど腫れ上がった。
 この頃、オクチョンは考えに沈んでいる時間が増えた。やはり、宮殿に出てからの我が身の処し方について不安があるのだ。
 その日も、物想いに耽りつつ大王大妃殿を出て、殿舎と殿舎の間の石畳をぼんやりと歩く。オクチョンがひそかに別離を告げたのは大王大妃だけではなかった。ミニョンにも同じことを告げた。
 女官は大概、二人以上の相部屋で、独立した居室を与えられるのはベテランになってからだ。けれども、大王大妃殿では室数に対して仕える女官の数が圧倒的に少なく、新米であろうが独立した居室を与えられた。
 もっとも、入宮した初日、後宮で過ごす最初の夜だけはミニョンが一緒に寝てくれたのだ。
―私も初めてここに来た夜はそうだったの。家族のことが頭から離れなくて淋しくて、眠れなかったから。
 優しい娘だと思う。確かに頭の回転は速いとはいえないけれど、周囲に対して気を遣いすぎているから、余計に失敗が多いのだ。もっと彼女の良いところを認めてやり、伸びやかに過ごせるようにすれば、仕事もできるようになるのにと、オクチョンは早くからミニョンの美点を見抜いていた。
 後にミニョンはオクチョンの片腕となり、生涯に渡って最後まで彼女の側にいることになるのだが―、まだ二人共にそのことを知る由もなかった。
 オクチョンが辞める決意を伝えると、案の定、ミニョンは泣いた。
―何なら、私と二人で辞めない?
 提案してみたが、ミニョンは泣きながら首を振った。
―実家には十五歳の弟を初め、下に四人の弟妹がいるの。母は働きすぎて、身体をこわしているし。
 自分が働いて仕送りをしなければ、一家は首をくくる羽目になると彼女は泣いた。ミニョンの家は何と両班だという。とはいえ、両班というのは名ばかりで、なまじ体面があるばかりに、それを維持するために無用な出費が必要なのだと、ミニョンは力なく笑った。
 父親は一番下の妹が生まれる前に亡くなったという。
―弟に科挙を受けさせるために、私塾に通わせるお金が要るのよ。
 ミニョンは自分の幸せは最初から諦めている様子だった。彼女の夢は弟を科挙に合格させて官吏とし、実家の家門に昔日の勢いを取り戻すことなのだ。
 女官になったそれぞれの娘たちに、それなりの事情があった。後宮女官といえば華やかそうで聞こえは良いが、実際はミニョンのようにお金のために宮仕えを決意したか、幼い中に口減らしとお金欲しさに親に売られた少女たちが大半だ。
 かといってミニョンに泣いて止められても、決意を変える気はなかった。自分は自分で、これからの人生を生きていかねばならない。とりあえず、今月末には後宮を去ろうと決め、少しずつ身の回りの持ち物の整理を始めた。
 とはいっても、元々、風呂敷包み一つだけで入宮したのだから、身一つで来たようなものだ。持ち帰るものとて何もない。スンの贈りものの紅玉のノリゲと手巾だけは絶対に忘れずに持ち帰ろうと思うけれど。
 結局、あのノリゲ盗難事件は不問に終わった。あの後、ソンイは繍房の尚宮に直接、尋問されたらしい。その時、彼女が何を言ったかは知らない。けれど、最初はしらを切っていたとしても、最後は真実を白状したに違いなかった。
 勝ち気なように見えても、若い娘のことだ、それにソンイは愚かではない。このまま嘘を突き通し、事が大きくなって義禁府などが介入してきた時、万が一、自分が嘘をついていたと露見すれば、どうなるかくらいは察したろう。
 当然だ、あのノリゲは盗んだ品などではなく、正真正銘オクチョンがスンから貰ったものなのだから。オクチョンの罪が問われなかった原因は一つ、ソンイが真実を白状したからとしか考えられなかった。
 オクチョンはどこへ行く気もなしに、石畳を歩いていた。数日前に鞭打たれた傷は化膿して、熱と痛みを持っている。母が持たせてくれた塗り薬も、あまり効かない。歩く度に酷く痛むので、今も脚を引きずるようにしか歩けない。
 人が見れば、さぞ無様な歩き方だろう。つと立ち止まり、チマからぶら下げたノリゲに触れる。可憐な紅吊舟が五つ並び、その一つ一つが紅玉で拵えられている。初夏の陽射しを受けて、紅玉がまばゆい燦めきを放った。
 オクチョンは知らず、その花の一つに触れていた。
「風のように現れて、あっという間に消えちゃったのね。スン、あなたは本当に実在の人だったのかしら。それとも、幸せな夢が見せてくれた幻なの?」
 呟きは小さなものだったため、まさか返事が返ってくるとは思いだにしなかった。
「誰が風のようだって?」
 間近で声がして、オクチョンはピクリと飛び上がった。
「―っ」
 愕いて恐る恐る振り返れば、その先にスン―逢いたくてならなかった男がいる。
「まさか、そなたに宮殿で逢えるとは」
 スンの美麗な面立ちに嬉しげな微笑がのぼっている。
―スンは私に逢えて、嬉しいのかしら。
 たとえようもない歓びがオクチョンの心にわき上がる。
「スン!」
 オクチョンは叫び声を上げ、スンに駆けよろうするも、脚に激痛が走り悲鳴を上げた。
「オクチョン?」
 スンは慌ててオクチョンの側に来た。
「どうしたんだ?」
 その場にしゃがみ込んだオクチョンは、ようやっと立ち上がった。
「どうしたのと聞きたいのは私よ。スン、どうして、あなたがここに?」
 今日のスンは初めて逢ったときと似たような色合い、群青色のパジを着ている。蒼色を好きなのかもしれなかった。上物のようではあるが、官服ではない。鐔広の帽子から垂れ下がっているのは服に合わせた蒼玉(サファイア)だろう。いつ見ても、見惚れるほどの男前だ。
「俺のことはどうでも良い。それより、オクチョン、何があった?」
 スンもしゃがみ込み、オクチョンが脚を押さえているのを見て、眉をひそめた。
「済まない、少し見せてくれ」
 オクチョンが応える前に、スンの手がチマの裾を捲っていた。もちろん、ほんの少しだけだ。しかし、痛々しくみみず腫れになった傷跡はしっかりと見えた。
「酷いな、これは。一体、何があったんだ、オクチョン」
 スンに問われ、オクチョンは肩を竦めた。
「ちょっとね」
「ちょっとじゃないだろう。これは鞭打たれた痕だな。誰がこんな惨いことをしたんだ」
 スンの綺麗な顔が蒼褪めている。オクチョンは力なく笑った。
「危うく盗人(ぬすつと)にされてしまうところだったの」
「盗人に?」
 スンは眉根を寄せ、語気荒く言った。
「そなたを鞭打ったのは誰だ?」
「誰だって良いでしょう。あなたには関係ないわ」
「関係なくはない。オクチョンは―」
 そこでスンは息を止め、ハッとしたような表情になった。見つめる彼女から視線を逸らし、彼は呟いた。
「オクチョンは俺の大切な友達だ」
「私を鞭打った人を突き止めて、どうするつもり?」
「俺がそなたの代わりに鞭打ってやる」
「いやね。王さまでもあるまいに、あなたが後宮の尚宮さまを鞭打てるはずがないでしょう」