炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻
当然のように頷くソンイに、オクチョンは腕組みをした。
「一体、何の証拠があって、そんな言いかがりを言うの?」
「そなたは現に、そのノリゲを持っている」
突きつけるように指さされ、オクチョンは愕然とした。
「まだ見習いの癖に、分不相応なノリゲを身につけている。それだけでもご法度である上に、そのノリゲはまさに私が母から貰い受けたものだ」
ソンイがつかつかと歩み寄り、オクチョンのチマから垂らしているノリゲを引っ張った。
「このノリゲは私のものだ」
「馬鹿なことを言わないで。これは私がある人から貰ったものよ」
ソンイが?んでいるのは、紅吊舟のノリゲだ。スンが最後に逢った日、買ってくれたものだ。オクチョンは入宮するに際しても大切に身につけていた。いつも片時も肌身離したことはない。
このノリゲは二度と逢うことは叶わない初恋の男の大切な記念なのだ。
「では、そのある人というのは誰?」
ソンイもまた挑戦的な眼でオクチョンを睨みつけている。
「これは―」
叫ぼうとして、オクチョンは口をつぐんだ。ソンイは明かな悪意を持って自分を盗人に仕立て上げようとしている。最悪、この事件が大きくなれば、後宮内だけでは済まず、義禁府(ウィグムフ)や捕盗庁(ポトチヨン)でオクチョンは裁かれる可能性もある。
そんな大それた事件に、スンを巻き込みたくない。見たところ、彼は相当の家門の子息のようであった。このままいけば、いずれは判書どころか議政府入りして丞相にまで昇る人かもしれない。そんな前途悠々たる彼の妨げにはなりたくなかった。
オクチョンはソンイの手を振り払った。
「放して」
大切なスンとの想い出をこんな女に穢されたくない。彼女はスンのくれたノリゲを大切にしてきた。別れ際、涙したオクチョンに彼が渡してくれた手巾もあれから綺麗に洗って、いつも袖に忍ばせている。
恐らく彼とは二度と逢うことはないだろうとは諦めながら、また逢ったときにはいつでも返せるようにと宮殿にまで持ってきた。
「何をする」
手を振り払われた勢いで、ソンイがよろめいた。激高するソンイが手を振り上げたのを見て、ミニョンがすかさず二人の間に走り出た。
「これはオクチョンのものよ。彼女が実家から持ってきた手荷物の中にちゃんと入っていたのを私、見たもの」
小柄なミニョンはソンイより、かなり背が低い。そんな彼女が精一杯の勇気を振り絞ってソンイに立ち向かっていく。オクチョンは茫然とミニョンの小さな後ろ姿を見つめた。
「煩いっ、私は女官となって既に七年目になる。いわば、そなたらの上役になる立場だ。その私に逆らうのかっ」
こうなると、美女も台無しだ。黙って微笑んでいれば牡丹の風情だが、眉間に皺を刻んで怒鳴り散らす姿は国王どころか、どんな男でも寄りつきたくないだろう。
パアーンと乾いた音が満ちたしじまを破る。ミニョンの身体が吹っ飛んだ。どれだけの力を込めたのか、地面に倒れ伏したミニョンは身動きもしない。
オクチョンは涙眼でソンイをにらみつけた。
「あなたたちは従姉妹揃って、どうして、そんな非道なことができるの!」
もう我慢も限界だった。我が身のことならまだ許せる。けれど、ミニョンはオクチョンを庇おうとして、ソンイに打たれたのだ。
オクチョンは力を込めて平手を振り上げた。また、パンという音が聞こえる。ソンイは茫然としていた。まさか入ったばかりの新米、しかも隷民上がりだと馬鹿にしていた下っ端からやり返されるとは想像していなかったのだろう。
「やったな」
ソンイが凄みのある声で言い、後はソンイの背後に控えていた女官たちが飛びかかってくる。倒れ伏したミニョンには眼もくれず、彼女らはオクチョン目指してきた。今度ばかりは彼女も遠慮はしなかった。叩かれれば叩き返し奮戦したものの、多勢に無勢では敵うはずもない。
四半刻後、オクチョンはまたも頬に青あざをこしらえたミニョンと二人、襤褸を纏った乞食のような姿になりはてて殿舎に戻った。
今回は、流石にホン尚宮も大目には見てくれなかった。チェ・ソンイは繍房に勤続五年め、しかも九歳で見習いとして後宮に上がり、十三歳で人よりは早く一人前と認められた。幼いときからたたき上げてきたエリート女官だった。今年、二十歳だという。
針子としての腕も確かで、大妃はソンイの刺繍したチマチョゴリでなければ身につけないといわれるほど、お気に入りでもある。あと数年内には早くも尚宮に昇進するのではという大妃の憶えめでたい女官だそうな。
相手が悪すぎた。オクチョンはいわば大妃という後ろ盾を持つ女官を敵にしてしまったのだ。しかし、あの時、他にどう対処していれば良かったのか。
―市井にいるときと同じ。後宮に上がれば、才覚と努力次第で出世もできると楽しみにしていたのに、やはり同じね。
奴婢の子だ、身分が賤しいと最初から馬鹿にされる。こんな場所(後宮)にいたって、仕方ない。
オクチョンは決めた。後宮を出るのだ。どうせ何年いても、不当な扱いを受けねばならないのなら、今の中にさっさと出てゆくべきだろう。
流石に大王大妃も今度の件について庇うことはできなかった。殿舎に辿り着いた時、オクチョン、ミニョン共に無残な姿となっていた。それでも無抵抗だったミニョンは多少、衣服が汚れている程度で済んでいたが、オクチョンときたら女官の制服はあちこち引き裂かれ、顔だけでなく身体中にアザができていた。
汚れた身体を拭き清め、新しいお仕着せに着替えたオクチョンは早速、大王大妃に呼ばれた。
うなだれるオクチョンに、大王大妃は深い労りのこもった声をかけた。
―済まぬのう。私に力がないばかりに、仕える者たちにまで辛い想いをさせる。相手が大妃の可愛がっている女官ゆえ、表だって動けなんだのじゃ。
―大王大妃さまのせいではありません。私の軽率なふるまいのせいで引き起こしたことゆえ、自業自得です。
オクチョンが大人しく言うと、大王大妃はフと寂しげな笑みを刻んだ。
―情けなきことだ。王室の長老などと奉られる立場でありながら、内実は何の権限もない甲斐無き我が身が情けない。孫の嫁にすら言いたいこと一つ言えぬとは。
オクチョンは心に決めたことを大王大妃に告げた。後宮を下がると言上したオクチョンを、大王大妃は静かな瞳で見下ろした。
―そなたが決めたことならば、私が口だしするべきではなかろう。ただのう、オクチョン。そなたの宿命―これから生きてゆく場所は元いた市井ではなく、ここにある。私が観相から見たそなたの未来は、そう私に伝えている。それだけは忘れるな。
謎のような言葉で、大王大妃は話を結んだ。
―これから生きてゆく場所は元いた市井ではなく、ここにある。
恐らくは観相で占ったオクチョンの未来では、自分は市井ではなく後宮で生きる運命だと大王大妃は言いたかったのだろう。けれど、どう考えても、それが的中するとは俄に信じがたい。
この後宮に自分を引き止めようとする人も、自分自身、未練など一つもないのだから。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻 作家名:東 めぐみ