炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻
相手も負けじと抗戦する。セギョンと泣きぼくろの娘がオクチョンの髪を引っ張り、頬を殴りと、凄まじい攻勢に出た。一方、オクチョンは自分から飛びかかったものの、一度もやり返さず、ただなされるままにしている。
その場に、ミニョンの甲高い泣き声が響き渡り、三人の先輩女官の中、最後まで状況を静観していた一人が慌ててコン尚宮を呼びにいくまで、物々しい雰囲気は続いた。
同じ時、若い女官たちの引き起こした騒動を物陰から見ている者がいた。
その日、若い国王が久々に曾祖母を訪ね、大王大妃殿に渡ったのである。大王大妃の居室に行くにはその場所を通らねばならない。
宮殿内であっても、国王は大勢の内官や尚宮、女官を連れて物々しく移動するものだが、この場合はお忍びだから、お付きの者も信頼する大殿内官と尚宮のみだ。
「何という醜態にございましょう。畏れ多くも国王殿下の御前で、このような有様とは。真に申し訳ありません、あの者たちは大王大妃さまにお仕えする若い女官どものようです。早急に止めさせて、相応の罰を与えねば」
年配の大殿尚宮が蒼褪めて言うのに、粛宗は片手を上げた。
「いや、止めるには及ばぬ。あのままにしておくのだ」
若い王は口早に言い、廊下の曲がり角に身を潜め、女官たちの騒動の一部始終を眺めたのだった。
やがて知らせを受けたコン尚宮が慌てふためいて駆けつけ、オクチョンと泣きぼくろの娘は数人がかりで女官たちに押さえつけられた。
「どうやら、騒動もこれでおしまいのようだ」
粛宗が愉快げに言うのに、既に老齢の大殿内官が畏まって訊ねる。
「いやはや、女は怖い生きものでございます」
「さりとて、爺。これは単なる喧嘩ではない。元々は同輩が不当な眼に遭うのが辛抱ならなかった勇気ある女官の引き起こした正義の戦いだ」
「正義の戦い、でございますか。まあ、物は言い様ですが」
粛宗が幼い頃は守り役も務めた老内官は、首を傾げている。
「いずれにせよ、あのどもは私からホン尚宮に命じて、きついお灸を据えさせます」
こちらの大殿尚宮は粛宗が襁褓にある頃から育てた保母尚宮である。二人ともに若い王が生母の大妃よりも信頼し慕う者たちだ。
だが、ここでも粛宗は二人の内官と尚宮を驚愕させることを言った。
「罰する必要はない。むしろ罰せられるべきは、この騒動を起こし、罪なき同輩を転ばせた者の方である」
粛宗はきっぱりと言い、かつては乳人でもあった尚宮に強い口調で命じた。
「この件については、あの女官全員が自室で十日間の謹慎。それを罰とせよ」
「お言葉ですが、殿下。内命婦のことは中殿さまがお決めになることにて、殿下におかれましても、お口だしはできないことになっております」
尚宮が言うのに、粛宗は笑った。
「後宮といっても、お祖母さまのお住まいのことまで中殿がいちいち気に掛けるとは思えんがな。とにかく、このことはあまり騒ぎ立てぬようにせよ」
「畏まりました」
尚宮はまだ納得がいかないながらも、国王の言葉に頭を下げた。
その一方で、尚宮は知っている。粛宗より二つ年上の王妃は叔母でもあり、姑でもある大妃にならい、大王大妃を表では立てても内心は軽んじているのを―。
恐らく、若い王の言うとおりだ。王妃は忘れ去られた大王大妃殿で起きた女官同士のもめ事など、知りたくもないと思うに違いない。
粛宗は笑いながら言った。
「今日のところは帰るとしよう。また明日、お祖母さまをお訪ねする」
秀麗な面立ちの国王は十五歳の若さながら、早くも王としての存在感を纏わせている。確かに美男の国王ではあったから、若い女官たちが?眩しくて竜顔を拝せない?と噂するのもある意味では真実かもしれない。
龍が金糸銀糸で勇壮に縫い取られた赤い王衣が凛々しい風貌によく似合う。粛宗は大殿内官と尚宮を引き連れ、静かにその場を去った。
神ならぬ身のオクチョンは、よもや諍いのすべてを国王に見られていたとは思いもしなかった。駆けつけた女官たちに押さえられ、オクチョンはホン尚宮の許に連れていかれた。その場にはセギョンと泣きぼくろの女官―ユアもいた。
ホン尚宮はいつもどおり何を考えているのか判らない静かな表情で、少し下座に控えるコン尚宮は苦虫を噛み潰したような顔だ。
「たった今、ミニョンとキョンオクから一切の事情は聞いた。何故、このような騒動が起きたかも私は知っている」
ホン尚宮が静謐な声で告げると、セギョンがガバと顔を上げた。
「尚宮さま、ミニョンが嘘をついているということもあります」
それに対して、ホン尚宮はゆるりと笑う。
「それはない。キョンオクとミニョンの言い分はすべて一致した。私はそれぞれ別の室で両者から事情を聞いたのだ。ましてや、キョンオクはそなたの親友であろう。キョンオクがそなたに不利なことを―偽りを申してまで述べるとは思えぬ」
ホン尚宮は言い終え、今度はオクチョンを見た。
「そなたは何か言い分はあるか?」
オクチョンは小さくかぶりを振った。
「何もありません。ミニョンの言ったことは、すべて事実です。私が入宮してまだ半月ほどにしかなりませんが、その間にセギョンたちがミニョンを不当に虐めるのを少なくとも数度は目撃しました」
「そうか」
ホン尚宮が頷くのに、オクチョンは言った。
「尚宮さまに申し上げることはございませんが、セギョンとユアにはあります」
「ホホウ、それでは今ここで何なりと申すが良い」
言ってから、ホン尚宮は表情を引き締めた。
「ただし、この後はもう、こたびのことは忘れ同じ宮に仕える者同士、助け合い大王大妃さまに忠誠をお尽くしすることを誓うのだ、良いな」
「はい、尚宮さま」
オクチョンは頷き、セギョンとユアを交互に見た。
「沈(シム)女官、ソン女官」
オクチョンは先輩に対する敬意をこめて、二人を呼んだ。何を言われるのかと、二人が一瞬身構えるのが傍目にも判った。
「私は今まで、あなたたちがミニョンを不当に扱うのを黙って見ていたわ。後宮内で後輩は先輩に逆らってはいけないと言われていたからよ。でも、今日だけは我慢できなかったの。ミニョンは何も悪くないのに、どうして、無抵抗の彼女にあんな酷い仕打ちができるの?」
オクチョンは小さく息を吸い込んだ。
「この宮では、若い女官の数は少ないわ。沈女官とソン女官、更にイム女官、ミニョンと私だけよ。数少ない若い者同士だからこそ、助け合っていかなければならないのではないかしら。―弱い者虐めは卑怯よ」
少しの沈黙があり、ホン尚宮が言った。
「言いたいのは、それだけか?」
「はい」
オクチョンは神妙な顔で頷いた。
ホン尚宮が厳しい声音になった。
「今後、このような無抵抗の者を不当に虐めたりしようものなら、むち打つだけでは済まぬぞ、それを心得よ」
ホン尚宮が軽く頷いて見せ、心得たコン尚宮がセギョンとユアを連れて退室した。
「ところで、オクチョン」
人の気配がなくなったところで、ホン尚宮が口を開いた。
「そなたは何故、ユアに殴られるに任せておったのだ? やり返そうとは思わなかったのか?」
その問いに、オクチョンは口許をほころばせた。
作品名:炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻 作家名:東 めぐみ