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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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 オクチョンの言葉に、初めて女性が彼女を見た。紫がかった蒼ざめた唇がかすかに動いた。
―そなたは?
―私はこちらの殿舎に新たに入りました女官でございます、大王大妃さま。
 もう、この女人がそも誰であるか、訊かなくても判っていた。慈懿大妃(壮烈王后)、この時、五十二歳。当代の粛宗から数えて四代前の国王仁祖の二番目の妻であった人だ。
―そうか。さりながら、新入りにしては気が利くのう。そなた、何ゆえ、私が水が欲しいと判ったのだ?
 その問いに対して、オクチョンは即答した。
―今日は殊の外暑うございます。それゆえ、大王大妃さまは暑気当たりなさったのだと畏れながら拝察申し上げました。
―なるほど。
 大王大妃は軽く頷き、しげしげとオクチョンを見た。見つめられただけで、思わず背筋が伸びた。居住まいを正さなければならないような雰囲気になる。先刻までのどこか弱々しい萎れた花のような雰囲気はどこへやら、そこにいるのは、まさしく四代前の王妃であり、王室の最長老であった。
 打って変わった別人のような威厳を纏った大王大妃は、小柄ながら圧倒されるようだ。力がなかった双眸にも強い光が閃き、怖いもの知らずのオクチョンも眼を伏せたくなるほどだった。 
―真に美味しい水であった。このように美味しい水は生まれて初めてだ。
 大王大妃の厳しい表情がふっと緩んだ。笑うと、とても優しい雰囲気になる。この笑顔はどこかで見たことがあると思ったのだが、思い出せない。
 大王大妃の物言いは少し大げさなようにも思えたが、それほどまでに満足して貰えて嬉しい。そう思った時、また問われた。
―そなたが汲んできた水が何故、さほどに美味しく感じられたか、そなたには判るか?
 オクチョンはしばらく思案した末、控えめに言上した。
―井戸の水が良かったからでしょうか。
 と、大王大妃は笑った。
―聡いといえども、やはりまだ若いな。そなたのくれた水が何故、美味しかったのか種明かしをしようとするかの。
 ?種明かし?という意外な言葉に気を取られているオクチョンに、大王大妃は笑いながら言った。
―そなたの心がこもっておったゆえじゃ。
―心、でございますか。
 思わず問い返したオクチョンに、大王大妃は彼女の眼を見て頷いた。
―大概の者であれば、水を渡してしまいじゃ。されど、そなたは私が急いで飲み過ぎるにまで気を遣った。そこまでの気遣いができる者はこの後宮ひろしといえども、なかなかおらぬ。そなたのその優しい心がただの水を甘露に変えたのよ。
―そなたの名は?
 改めて訊ねられ、オクチョンは恭しく応えた。
―チャン・オクチョンにございます。
―オクチョンか、玉のように美しく、貞淑であれとの願いを込めた名だな。名のとおり、美しく優しい娘に育ち、父御も母御も満足であろう。
―お言葉ですが、大王大妃さま、私の父はとうに亡くなりました。
―ホウ? 
 そこで生い立ちを訊ねられ、オクチョンはほぼ包み隠さず生い立ちを話した。もちろん、伯母にいびられていたというのは、適当に取り繕ったが、この賢明な女性はオクチョンの話だけで彼女の境涯を見抜いたようであった。
―幼くして父を失い、それは苦労したのう。さりながら、後宮に参ったのも何かの縁であろう。私は王室でいちばんの年寄りとはいえ、名ばかりで、何の力もない。だが、私で力になれることがあらば力になろうぞ。
―私のような賤しい者に勿体ないお言葉、ありがとうございます。
 オクチョンが心から言えば、大王大妃は微笑んだ。
―オクチョン、人の貴賤というものは生まれだけで決まるものではないぞ。
 それはまさに彼女自身が考えていたことであった。しかし、王族の、かつて王妃であった女性に対して口にできるものではない。
 が、大王大妃は見かけ以上に拓けた考えの持ち主らしかった。
―人の価値は生まれにあらず、育ちにもあらず。心の持ちようで決まる。オクチョン、そなたは心優しい娘だ。そなたの母がたとえ奴婢であろうが、それは、そなたの価値を少しも損なうものではない。もっと自分に自信を持て。
 そこで、大王大妃は思いも掛けぬことを口にしたのだった。
―そなた、主上(チユサン)に仕える気はないか?
―え?
 オクチョンは大きな瞳を零れんばかりに見開き、大王大妃を見つめた。
―私は主上の曾祖母に当たる。もっとも、血の繋がりはないが。それでも、あの子は幼いときから私の許をよく訪れてくれ、何かと気にかけてくれる。そなたのような心優しく聡明な娘であれば、若い主上の良き支えとなってくれるのではないかと思うてな。
 オクチョンはその場に手をつかえた。
―お許し下さい、大王大妃さま。折角のありがたいご諚ですが、私には恋い慕う方がおります。
―そうなのか?
―はい。
―恋い慕う男がありながら、何故、女官などになった?
 伯母の許から逃げてきたのだ―、とは言えなかった。大王大妃はそれ以上、追及はせず、続けた。
―では、私がそなたに今日の礼をしよう。オクチョン、その者に嫁ぐが良い。私がそなたの親代わりとして嫁入り支度万端を整えてやろうほどに。
 義理とはいえ、伯母になる人からは辛く当たられてきたのに、今日初めて逢った高貴な女人は我が身の親代わりになっても良いという。
 オクチョンは熱いものがこみ上げてきた。手をつかえたまま、言上した。
―その方と私は理由があって、添えない宿命なのです。
―ホウ? その理由とは。
―身分が―違います。
 オクチョンはありのままを告げた。
―身分違い、か。よくある話ではあるな。両班の子息なのか?
―恐らくは。
 オクチョンはスンの美麗な貴公子ぶりや、纏っていた絹製のパジを思い出して言った。
―私の養女分となれば、その身分違いとやらも解決できるのではないか?
 本当に、ありがたい申し出であった。オクチョンは涙が出そうになったが、額をその場にこすりつけんばかりに頭を下げた。
―生意気を申し上げますが、お許し下さいますでしょうか。
―おお、何なりと申せ。
―何事も無理を通せば、均衡が崩れます。人の縁というのも同じだと思うのです。あの方と私は住む世界が違いますゆえ、無理に繋がらぬ縁を繋げても良い結果にはならぬかと。
―なるほど。
 大王大妃は頷き、更に彼女の顔を探るように見つめた。その透徹な瞳は何もかもオクチョンの心の奥底までをも見透かしてしまいそうだ。本当はこのまま大王大妃のありがたい申し出を受けて、スンにまた逢いたいと願っていることも知られているのではないか。そう思ってしまいそうだ。
 しばらくオクチョンを静かに見つめていた大王大妃は、つと眼をそらした。
―オクチョン、ここだけの話だが、私は若い頃から観相を致すのだ。
―観相とは、占いのようなものでございますか?
―さよう。まかり間違っても王妃が手を染めることではない。ゆえに私が観相をするのは、ごく信頼できる者たちしか知らぬ。
 大王大妃は小さく頷き、続けた。
―今、そなたの骨相をとくと見た。なかなか良い面立ちをしておる。そなたの上に羽ばたく鳳凰を見た。
―鳳凰―。
 そう言われても、話のゆく先が見えず、オクチョンは首を傾げた。
 大王大妃は意味深な微笑を浮かべた。