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炎の王妃【チャンヒビン】~月明かりに染まる蝶~・第一巻

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 大体、この殿舎には人手が少なすぎる。仮にも国王の曽祖母君に当たる方のお住まいなのに、使用人といえば、尚宮と女官、合わせて数えるほどに満たない。しかも、女官といえば殆どは老齢か、それに近い年増ばかりである。
 新入りのオクチョンが唯一、若いといえた。歳のいった女官や尚宮は必然的にあまり動きたがらず、若いオクチョンが一人で力仕事までこなす有様だった。とはいえ、彼女は生来、身体を動かすのが好きだし、こき使われるのは伯父の屋敷で慣れっこだ。
 むしろ、ここは女官のお仕着せとはいえ、上等の服を支給されるし、三度の食事もご馳走がふるまわれる。多少の仕事上の失敗をしても、食事を抜かれる心配もなく、伯父の家で伯母の顔色ばかり見ていた頃に比べれば極楽だ。
 その分、彼女は伯父の屋敷に残してきた母のことが気に掛かった。母は美人で、大人しかった。伯母はいつまでも若くて綺麗な母を余計にやっかみ、八つ当たりばかりしていた。自分は伯母の手を逃れて宮殿で安穏としていられるが、母は今もあの屋敷で鬼のような伯母に口汚く罵られ、こき使われているだろう。そう考えただけで、伯父の屋敷に飛んで戻りたくなる。
 しかし、今は一生懸命に働いて、少しでもたくさんのお金を貯めることが先決だ。女官は原則として一生奉公である。後宮は国王ただ一人の男のために美しい女を集めた花園ともいえる。女官はその花園に咲く一輪の花だ。
 女官が?王の女?と呼ばれるゆえんであるが、実際のところ、一女官から王に見初められ、お手つきとなって正式な側室になる道程は、言うほど簡単なものではない。王の眼に止まる幸運な女官は、大勢の中でほんの一人か二人にすぎない。大抵の者は美しく咲き誇る花の時期を後宮で無為に過ごし、誰にも愛でられることなく散ってゆく。それが女官の哀しい宿命であった。
 ?王の女?であるから、恋愛も自由にはできない。他の男と通じれば、王に対する反逆、不敬と見なされ、最悪、生命を失う羽目になる。過去にそうやって若い官僚と恋を語り、処刑された憐れな女たちが実在する。
 もとより、オクチョンは恋愛する気なぞ、端からなかった。一生奉公の女官ではあるが、何事も例外はあるものだ。長年真面目に勤め上げれば、尚宮になるという道もあるし、更には纏まったお金を手にして勇退という道もある。
 宮殿は広大で、それぞれの役目を受け持つ部署がある。例えば王や王妃の食事を担当する水刺間、その衣装を担当する繍房など、そのほかにもたくさんの部署に分かれ、それぞれの場所でたくさんの女官が仕事に従事する。その女官たちを統括するのが尚宮であり、それぞれの部署に尚宮がいる。
 更に、後宮全体を統括する提調尚宮(チェジヨサングン)、その下の副提調尚宮、後宮女官の風紀を一括して監督する監察(カムチヤル)尚宮が後宮のナンバースリーとして控える。後宮の最高責任者は現国王粛宗の王妃であるが、実質的な運営は提調尚宮が若い王妃や明聖大妃の意向を汲みながら行っている。
 尚宮になれば、正五品の位階を賜り、表で活躍する官吏と肩を並べることもできるのだ。王の側室は別とした、正五品といえば、後宮女官としては最高の地位である。もちろん、オクチョンは側室になる気も、国王に見初められたいという気も塵ほどもなかった。
 まだ若い国王は竜顔も麗しく、女官はまともに見つめられないほど端麗な面立ちの貴公子だという。あまりに美しくて光り輝いているから、眩しくて見られないのだそうだ。
 だから、王が後宮に来るといえば、年老いた尚宮は別として、若い女官は皆いそいそと化粧をし、装いを許された中で凝らすらしい。それを聞いた時、オクチョンは鼻で笑ったものだった。
―馬鹿らしい。
 黄金ではあるまいに、何が光り輝くですって? 明聖大妃も到底、成人した息子がいるとは思えないほど若く美しいというから、親子揃って美形なのだろう。けれど、生身の人間が光り輝いているはずがない。恐らく、国王という至高の立場があいまって、そこそこの男前に?光り輝く?という大仰な形容詞がついただけ。
 彼女はうらぶれた大王大妃殿にいるから、他の殿舎のことは知らない。―むしろ、知る立場にいなくて、良かったと思っている。国王が来るだけで色めき立ち、化粧だ何だと騒ぎ浮かれるなんて、オクチョンから見れば愚かとしか言いようがない。
 そんな時、彼女がいつも心に浮かべるのはスンの面影だった。
―私は王さまなんて、どうでも良い。何と言っても、この世でいちばん光り輝いているほど麗しいのは、スンなんだから。
 スンとはもう二度と逢うことはないだろうけれど、咲き誇る垂れ桜の下で過ごしたひとときがあれば、これからも自分は幸せな夢の中で生きてゆける。彼女にとって、国王の眼に止まりたいがために大騒ぎする女官たちの行動は、完全に他人事であった。
 オクチョンは自分が機転が利く方だとの自覚はあった。能力を活かせば、尚宮になる自信はあったけれど、できれば早くお金を貯めて後宮を出たいと考えている。纏まったお金でどこかに小さな屋敷を買い、母と兄を呼び寄せて三人で暮らすのが夢だ。
 それまでは、とにかく地道に働くしかない。そんな想いでいたから、自分の与えられた仕事にも手を抜かない。良い加減なのは嫌いなのである。
 大妃殿に比べれば、随分と手狭な感は否めないが、それでも部屋数はある。オクチョンは一つ一つの部屋をそれでも手抜きせず、きっちりと磨き上げていった。
―これで、やっと十番目ね。
 流石に溜息をつきつつ、室を出た途端、彼女は廊下をよたよたと歩いていた人物とぶつかった。 
―大丈夫ですか?
 やや腰を屈めた歩き方といい、間違いなく老婆だと思ったのだが―、意外にも衝突した相手はそこまでの年配には見えない。
―ああ、大事ない。
 尚宮の一人かと思ったけれど、見憶えがない。しかも、尚宮のお仕着せではなく、豪奢な衣服を纏っている。そこで、ハッと思い至った。
―もしや大王大妃さまでいらっしゃいますか?
 女性はぶつかった拍子に、尻餅をついている。オクチョンは急いで助け起こしながら訊ねた。
 相手は何も言わない。そして、これ以上、動けないというように力なく首を振った。
 オクチョンは思案した。今日は五月に入ったばかりで、日中の今は夏並みの陽気である。朝夕と昼間の寒暖差が烈しいのがこの時期の特徴だが、身体の弱い人や年寄り子どもには厳しい気候だ。
 オクチョンは女性に言った。
―ただいま、冷たいお水をお持ち致しますゆえ、お待ち下さい。
 外に駆け出て近くの井戸から冷たい水をくみ上げ、盆にのせて運んだ。
―どうぞ。
 女性は血の気が失せた顔で、その場に座り込んでいた。清水の入った白磁の湯飲みを女性の口元に近づけ、囁いた。
―急に呑むと噎せますから、ゆっくりと召し上がって下さいね。
 女性はかすかに頷き、オクチョンは彼女が呑み終えるまで湯飲みに手を添えていた。
 すべての水を飲み終え、オクチョンは女性の様子を見守った。少し経つと、蝋のように白かった面にはわずかながら血の気が戻り、頬にも赤みが出てきた。
 正直、このままどうなるのかと案じていたから、胸をなで下ろした。
―大事なくて、良かったです。