表裏めぐり
「それはそれでいいのよ。今の私も主人公の目線で見ているけど、そのうちにあなたのように作家の目から見ることができるような気がしているの。その時にどんな気持ちになるのか、ちょっと興味があるわ」
「ええ、私も」
と言って二人で笑っていた。
それから半年ほどしてからのことだった。それまで何冊も本を借りたのだが、晴美の方も自分で本屋に赴いて、読みたい本を探すことが楽しみになってきた。本屋に行けば、一時間近くも本を物色することなど、珍しくもなくなっていたのだった。
友達とは相変わらず読んだ本の感想を言い合う仲であったが、ある日急に友達が面白いことを言い出した。
「最初にあなたに本を読むように勧めた時の話を覚えている?」
と言われて、
「ええ、覚えているわ」
「あの時、私が主人公の立場に立って本を読んでいるって言ったでしょう?」
「ええ」
「そしてその時、いずれあなたのように作家の立場になって本を読む日が来るような気がするとも言ったよね」
「ええ、覚えているわ。今がその時なの?」
と聞くと、彼女は落ち着きを表に出してはいたが、少し興奮気味に、
「そうなのよ。作家の立場に立って本を読むことができるようになったのよ」
ここまで言うと、たった一言なのに、言葉の最後の方は明らかに興奮状態だったのが分かった。
「そうなんだ。じゃあ私もそのつもりで話を聞くようにしないとね」
と晴美は言ったが、これまでの半年間の間で、途中から彼女と話をしなくなっていたのをいまさらながら思い出していた。
「それでね。私がどうしてそんな気分になったのかというと、一歩下がって本を読もうと思ったのがきっかけだったの。そして、そう思うと、本を読んでいて、面白いように先の展開が分かるようになってきたのよね。しかも、文章まで想像できるようになってきて、そこまで来ると、完全に作家の気持ちになって読んでいるのと同じでしょう? まるで作家がこの小説を書いている横で、私も同じ題材の小説を書いているような気分になってきたの」
「それは面白いわね」
晴美は、そこまで考えたことはなかった。
確かに彼女のいうように、話の展開が先の方まで想像がつくことはあったが、文章まで想像できるなどなかったことだ。
――きっと、小説家と自分とが別の世界の人種のように思っていたからなのかも知れないわ――
と感じた。
その思いを彼女は察したのか、
「私は、小説を自分で書いているかのような錯覚に陥ったんだけど、でもそう思えば思うほど、自分が情けなくなるような気がしてきたの」
「どうして?」
「小説家の気持ちになって小説を読んでいるにも関わらず、自分には小説を書くような才覚がないということを、いまさらながらに思い知らされたような気がするからね。確かに小説家の人とは人種が違うとまで思っているんだけど、せっかく想像ができるのに、書くことができないなんて、才能や才覚だけの問題なんじゃないかって思うようになったのよ」
という彼女の気持ちは晴美も分かる気がした。
「書いてみようとは思わないの?」
「ええ、でも文章を思い浮かべることができるようになったからと言って、実際に文章を書き連ねることができるかというとそうでもないの。この二つは似ているように思うんだけど、実際にはまったく違った感覚なんじゃないかって思い始めたのよ」
「それほど小説を書くというのは難しいということなのかしら?」
「ええ、そうも思うんだけど、でも逆に、何かのきっかけがあれば、書けるような気もするの。だって文章を想像することができるようになったんだから、書けないと思い込んでいる気持ちを解きほぐせるような何かのきっかけが必要であることは間違いないと思うのよ」
「なるほど、そうなのかも知れないわね」
と言いながら、晴美も考えていた。
――私も小説を書くなどという大それたことを今まで考えたことはなかったけど、実際に本を読むうちに、書きたいって衝動に駆られたのも事実だわ――
と思った。
そのことを彼女にいうと、
「そうでしょう? 小説を読んでいると、自分でも書いてみたいと思うのは自然の成り行きに思うのよ。遅かれ早かれ訪れるものなんでしょうけど、人によっては、そう思う前に本を読むのをやめてしまう人も結構いると思うの」
「気付かないまま過ぎるか、それとも諦めの境地に達するか、あるいはずっと小説家になる夢を持ち続けている人がいるかのどれかなんでしょうね」
と、当たり前のことだけど、それが真実なのだと晴美は感じた。
彼女の名前は進藤つかさと言った。
つかさとは小学生の頃からの幼馴染だったが、彼女が読書が好きだったなんて、その話をするまで晴美は知らなかった。
つかさにとって読書というのは、小学生の頃からの趣味であった。小学生が趣味というのはどうかと思うが、つかさにとって、それは趣味以外の何ものでもなかった。
元々は絵本から興味を持ったと言ってもいい。幼稚園の頃までは、よく母親が絵本を読んでくれた。母親が仕事でいない時は、祖母によく読んでもらったものだ。
つかさが物心つくようになった頃には、祖母が絵本を読んでくれなくなった。なぜなら一緒に住むことがなくなったからだ。
その一番の理由は父親の転勤にあった。家も引っ越さなくならなければいけなくなり、それまで住んでいたマンションから、別のマンションに引っ越した。少し広くなったように感じたのは、それまで一緒に住んでいた祖母がいなくなったせいだったのだろう。
祖母と両親、そしてつかさの四人で住んでいたのだが、引っ越してから数年は母親が癒えにいた。しかし、つかさが小学生の四年生になってから母親は外で仕事を見つけてきて、夕飯も一人で済ませることがほとんどになっていた。
「もう、小学生の四年生なんだから、一人で大丈夫よね?」
と言われて、不安だなどと言える性格ではないつかさは、
「うん、大丈夫」
とウソでもそう言うしかなかった。
小学四年生というのがどれほどしっかりしていなければいけない年齢なのか分からなかったが、母親から、
「大丈夫よね?」
と言われれば、
――大丈夫なんだ――
としか思えないつかさは、そんな自分の性格を普通だと思っていた。
つかさは一人になると、思い出すのは祖母と二人の時間だった。
つかさが幼稚園の時は、祖母がいてくれたので、母親も仕事に出かけることができた。しかし、今は祖母もいない。それなのでつかさがそれなりの年齢になるまで、母親も仕事に出ることはなかったのだろう。
――どうして、おばあちゃんはついてきてくれなかったんだろう?
とつかさは思った。
そこには大人には大人の理由というものが存在しているのだろうが、小学生のつかさにそんなことが分かるはずもない。
そんな時、つかさは時々晴美の家に遊びに行っていた。晴美の母親もつかさの家の事情は心得ていたので、つかさの母親の許可を得たうえで、
「お母さんには話しているから、いつでも遠慮なく遊びにおいで」
と、つかさにそう言った。
つかさの方も、小学生らしいあどけない笑顔を浮かべながら、
「ありがとうございます。晴美ちゃんのところなら、母も安心だと思います」