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暦 ―こよみ―

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霜月(二)空港


 その日、羽田空港の出発ロビーに、直樹と由紀子は美沙子たちの見送りに訪れていた。
「ここでいいのよね。お母さんたちどこかしら?」
「もう少し待ってみて会えなかったら、電話してみるよ」
 それから五分としないうちに、美沙子が現れた。そして、その後ろには黒木と娘の凜の姿があった。
「よかった。今、電話しようかと思ってたんだ」
「わざわざお休みを取ってくれたのね、ありがとう」
「当然だよ、母親が外国へ移住するんだから」
「まあ、そんな大げさな。二年ほどで戻るかもしれないし、二か月後のお式には必ず帰国するのよ」
「とにかく気をつけてな」
 そして、直樹は黒木に向かって改まって挨拶を述べた。
「母のこと、よろしくお願いします」
「大丈夫だよ、直樹君、何も心配いらないからね」
 黒木に続いて美沙子が言った。
「私のことより、自分たちのことを考えなさい。由紀子さんを大切にね」
「もちろん大切にするに決まっているよ」
「そうね、余計なことだったわ」
 そんな親子の会話を、由紀子は恥ずかしそうに聞いていた。
「じゃ、僕たちはデッキに行くね、別れを惜しんでいたらキリがないから」
「ええ、じゃ、ここでね」
「お母さん、黒木さん、お気をつけて」
 三人でデッキに向かおうとしたが、凜がついてこない。
「凜さんもご一緒に」
 由紀子が誘うと、黒木が答えた。
「あれ、美沙子さん言ってなかったの? 実は、凜も私たちと一緒に行くことになったんだよ」
「え!」
 直樹と由紀子は同時に驚きの声を上げた。
「ええ、なんか言いそびれてしまって」
 直樹は、そんな美沙子に何か言いたげな表情を浮かべたが、何も言わず片手を挙げて別れの挨拶をした。
「じゃ、由紀子さん、ご家族の皆さまによろしくね。花嫁姿、楽しみにしているわ」
「お母さん、黒木さん、凜さん、いってらっしゃい」
 
 直樹は釈然としない思いで、デッキから離発着する飛行機を眺めていた。その様子に気づきながらも由紀子は黙って隣に立っていた。そして、美沙子たちを乗せた飛行機が飛び立つのを見送ると、由紀子が語りかけた。
「お母さんたち、行ってしまったわね」
「ああ、そうだね」
「直樹さん、私ね、お母さんの気持ち、わかる気がするの」
「え?」
「凜さんのことを気にしているんでしょ? おそらく、お母さんの方から凜さんに一緒に来るように言ったんだと思うわ」
「…………」
「だって、凜さんが自分から一緒に行きたいなんて言うとは思えないから」
「じゃ、どうして母は連れていこうとするのだろう?」
「黒木さんにとって、凜さんは大切な一人娘だからよ。若い娘をひとり日本に残して行ったら、黒木さんはいつも心配していなければならないと思うの。お母さんはそれを隣でずっと見つづけるということになるでしょ?」
「…………」
「直樹さんは息子だし、もう三十五だけど、本当はお母さんだって心配だと思うのよ。だから、黒木さんの気持ちがよくわかるし、若い娘さんということで心配の大きさは桁が違うと思ったでしょうね」
「…………」
「異国の地でなら、より助け合って、密度の濃い暮らしになると思うわ。だから、直樹さんが心配するようなことは何もないと思う」
 
 シンガポールへと飛び立つ機を見送った二人が、ロビーの出口に差し掛かった時、由紀子はベンチに座っている人の中に見覚えある顔を見つけた。
 あっと思い、由紀子が立ち止まると同時に、アナウンスが流れてきた。
『小松空港行きにご搭乗のお客様は……』
 すると、その男はさっと立ち上がり、搭乗口の方へと歩いて行った。
「どうしたの? 知り合い?」
「ええ、世田谷の伯父さんのところの久興ちゃんに似ていたんだけど、もう何年も会ってないから人違いかもしれないわ」
「小松行きに乗るみたいだから、金沢へ行く可能性はあるよ」
「そうね、政興伯父さんに会いに行くのかしら?」
「親が離婚しても、親子関係には変わりないからね」
「ええ、でも、弟の優(すぐる)ちゃんは一緒じゃなかったみたいだけど」
「兄弟といっても三十近くになれば、もういっしょには行動しないさ」
「それもそうね」
「さあ、こっちもこれから本格的に引っ越しの準備だな」
「そうね、私たちも旅立ちの支度が待っているのよね」
「そうだ、これから新居の掃除をしに行こう。よろしいですか? 奥さま」
「はい、旦那さま」

作品名:暦 ―こよみ― 作家名:鏡湖