暦 ―こよみ―
霜月(三)久興の決意
「まさか、本当に来るとはな」
東京からやってきた、長男、久興と座卓を挟んで向かい合い、政興は困惑した表情を浮かべた。
「父さん、俺、本気だよ。もう、あの事務所には戻らない」
久興の母、香津子の父である鵜原源次郎が創業者の大手弁護士事務所は、その源次郎が亡くなり、所長の椅子が空席となっていた。後継者として香津子の夫、政興と、香津子の弟、正志が候補に挙がり、周囲はその行方を見守っていた。そんな身内同士の混乱を避けるべく、政興は身を引き故郷に帰ろうとしたが、それを承諾できない香津子とはとうとう離婚することにまでなってしまった。
政興が去り、正志の手に委ねられた事務所は落ち着きを取り戻し、円滑に動いているように見えた。ところが、政興の思惑通りに一件落着とはいかなかった。残った香津子が、政興の代わりに弁護士になりたての久興を育てるよう、ことあるごとに弟の正志に迫っていたのだ。
そんな姉の口うるささに閉口した正志は、しだいに久興を疎んじるようになった。自分が久興を窮地に追い込んでいるとも気づかず、香津子は毎日のように事務所に顔を出した。自分が目を光らせていなければ、久興のために何としても、との思いからだ。
そんな母親と叔父の間に挟まれ、身動きが取れなくなった久興は悩んだ末、金沢の父の元へ行くことを決心した。
もともと、母の香津子は弟の優(すぐる)の方を溺愛していると、久興は以前から感じていた。優は優秀で、今は大学病院で研修医となっている。母にとって自分の存在は、祖父の事務所の後を継ぐ人間でしかない、久興は日頃からそう思っていた。
父親を尊敬し、少しでも近づこうとこれまでやってきたが、その目標を失った上に、叔父に煙たがられ、母に尻を叩かれる毎日、とても母の望むような後継ぎになんかなれやしない。
「あんな都会の大手事務所にいたお前が、こんな田舎町でやっていけるのか?」
「もともとあそこに俺の居場所なんてないよ。それに、父さんだってここでちゃんとやっているじゃないか」
「まあな、弁護士というより、町の仲裁屋だけどな」
「俺もそれでいいよ」
「私はもう引退したも同然だから今の暮らしで満足だが、お前はこれからだ。私とは違う」
「もう決めたんだ、東京へは帰らない。ここに置いてくれないか? 頼むよ、父さん」
「いいじゃないか」
そこへ、政興の父、栄吉がやってきた。
「そうですよ、大勢の方が楽しくてうれしいわ」
母の文江もお茶を持って入ってきた。
「父さんも母さんも暢気なこと言わないでくださいよ。こいつはこれからなんですから」
「だから、ゆっくり、ここで将来のことを考えればいいさ。久興、じいちゃんと畑仕事をするべ。体がなまるといい考えも浮かばんからな」
「そうそう、それがいいわ、久興ちゃん、美味しいご飯を作って待っているからね」
「ええ! 今から?」
「そうじゃよ、さあ行こう」
「そうだ、私もそろそろ事務所に戻らなければ」
政興が腰を上げたのを合図に、みんなは部屋を出て、それぞれの仕事に向かった。
政興の事務所に久興が顔を出したのは、もう夕方だった。
「畑仕事、ご苦労だったな。でも大空の下で体を動かすのは気持ちのいいものだろう?」
「着いて早々、こき使われるとは思わなかったよ。でも、たしかに気持ちはよかったな」
久興は小さな事務所の中を、物珍しそうに見回して言った。
「へえ、あの東京のオフィスとは大違いだな」
「あそこと比べること自体、間違いさ」
「当然、仕事の内容も雲泥の差なんだろうな」
「ああ、体のいい便利屋だからな」
「俺さ、じいちゃん手伝おうかと思って」
「手伝うって本腰を入れてか?」
「ああ、あの畑、誰も継ぐ奴はいないんだろう?」
「まあな、私がここのかたわら手伝うつもりでいるくらいだから」
「じゃあ、俺がやるよ、弁護士肩書が無駄になるけど」
「それはかまわないが、香津子が聞いたら腰を抜かすだろうな」
「母さんは、あの事務所を出た時点で俺のことは諦めているさ。それに、母さんには優がいるから大丈夫だよ」
「まあ、それもそうかもな。優が一人前になったら、開業でもさせるつもりだろうからな。そうすれば香津子もそっちに夢中で、正志くんもようやく落ち着いて事務所経営に当たれるだろう」
「そうさ、これですべては丸く収まるということだよ」
「しかし、お前には可哀想なことをしたな。あの事務所を出るのは私一人でよかったのに……」
「俺さ、今だから言うけど、本当は弁護士になんかなりたくなかったんだ。父さんが優秀な弁護士で、母さんは世間体を重んじる教育ママ、そんな環境を受け入れてきただけだと思うよ。だから、これからが俺自身の本当の人生なんだ」