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暦 ―こよみ―

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長月(三)渉の故郷


 のどかな田舎の風景が広がっていた。気持ちよさそうに大きく息を吸い込み、早紀子が言った。
「本当にいい所ね、生き返る気分だわ」
「今までも充分に生きていたように見えるけどね」
「あら、そんなことないわ、私だってこれでもいろいろあるのよ」
 早紀子と渉は、渉の故郷へやってきた。
 今年三月に東京へ出てから、何度か渉は母の元を訪れていた。電話で様子を聞くだけでは心もとないし、渉自身、慣れない東京暮らしに一息入れたいということもあった。でも何より、母がとても喜ぶというのが一番の理由だ。
「夜行バスなんて初めて乗ったわ」
「そうなの? 慣れているみたいだったけどな」
「四時間も座っていて疲れたけど、いい体験だったわ」
「すぐ寝てしまって、あれでも体験て言うのかな」
「あら、立派な体験よ」
 
 渉の父は、渉がまだ十歳の時に急逝した。その五年前、東京でサラリーマンをしていた父の勤め先が倒産してしまった。失意の中、これを前向きに捉えようと、父は思い切って自然の中での暮らしを選んだ。それは渉のためにもいいと考えたからだ。こうして、渉一家はこの地に越して来た。
 渉の父は、親から受け継いだ東京の土地と家を売り、この長野で一軒家と畑を買った。地元の人はいい人たちで、特に役所は子ども連れ家族のIターンを奨励していたこともあり、何かと手助けをしてくれた。しかし、いざスタートしてみると、縁もゆかりもない所で始めた田舎暮らしは、都会育ちの母、佳子にとってそれは大変なことだった。
 どうにかそんな暮らしにも慣れ、レタス栽培も板につき、農家として順調に歩み始めた矢先、父が逝ってしまった。突然大黒柱を失い、途方にくれる佳子だったが、これからは自分が何とかして幼い渉を育てていかなければならない。一人で農業を続けられない佳子は畑を近所の人に預け、役場へパートで働きに出た。ところが、もともと丈夫ではない佳子は、将来への不安も重なり、時々、床に臥すようになった。それでも、渉のため、渉が成人するまではとがんばったが、渉が高校を卒業すると、長年張りつめていた気が緩んだのか、とうとう過労で倒れてしまった。
 卒業後は預けていた畑をやるつもりでいた渉だが、母を看病しながら今後のことを毎日のように考えた。
 父の選んだ田舎暮らしが母には合わないのではないだろうか。東京で生まれ育った母は、町の暮らしの方が合っているのではないだろうか。本当は東京に戻りたいのではないだろうか……。
 また一方、渉は母の世話をすることで、介護という職種に興味を持つようになった。介護士になって、母と二人、東京のどこか片隅で暮らせたら……そのため、母がまだ一人で暮らせるうちに、単身東京に行ってその下準備をしてこよう。そしてゆくゆくは、母を呼んで東京でいっしょに暮らそう、そう決意した。そして、母が回復するのを待ち、渉は東京に向かった。
 それから今まで、畑を貸して得る収入と、週三日ほど近所の農家の手伝いに行くことで、佳子は質素な暮らしを続けていた。
             
「母さん、ただいま!」
 ふたりが玄関を開けると、奥から佳子が笑顔で現れた。
「まあ、早紀子さんね、待っていたのよ。どうぞ、上がってちょうだい」
「俺のことは目に入らないみたいだな」
 早紀子の耳元で、渉はそうささやいて笑った。
 早紀子は、庭から畑が一望できる居間に通され、本当の畳の感触を味わった気がした。都会の建て込んだ家の和室とはどこか違う、懐かしいような落ち着くような何とも言えない心地よさだ。そして、その中で見る佳子が思い描いていた感じと違うことに驚いた。この部屋に合うような田舎の中年女性を想像していたからだ。
 目の前の佳子は意外にも、フローリングのマンションのソファーが似合うような女性だった。もちろん、田舎暮らしだからそんな身なりをしていたが、それでもどこか都会的な匂いを感じさせる。和洋折衷という言葉があるが、田舎と都会の両方が存在している、ここはまさにそんな空間だった。
 
 
「早紀子さん、渉がいろいろとお世話になっているそうで、本当にありがとう。ひとりで東京に出していたから心配でね。だから、早紀子さんやお家の方に親切にしていただいていると聞いて、とてもありがたいと思っているの。いつか、ご挨拶に伺わなければともね」
「とんでもないです。私の方こそ、講習の時はいろいろと助けてもらいましたから」
「そうだよな、早紀は覚えるのが遅いからな」
「渉だって、忘れるのが早いくせに!」
「まあまあ、仲のいいこと」
 佳子は目を細めて笑った。
 
 その日はそれから、三人そろって畑を見に行った。小さな畑を思い浮かべていた早紀子は、その広さに驚いた。でも、この辺りではこのくらいが普通だという。
 そして、佳子が今、手伝いに行っているという農家にも顔を出した。人のよさそうな中年夫婦が三人を出迎え、今日はお客だからと言って、お茶とお茶請けに漬物を出してくれた。
「いつも母がお世話になっています。おかげで僕は安心して東京で働けます」
「早く母さんを迎えにきてやれよ。佳子さんに農家は向かないからな。それにしてもこんな田舎に幼子と遺されて、佳子さんも苦労したよな」
「あんた、今さらそんなこと。渉くんがこんなに立派に育ったんだから、もう少しの辛抱よね、佳子さん」
「そうだな、彼女まで連れてくるようになったんだからな。早紀子さんだっけ? 佳子さんのこと、よろしくな」
「あんた、それこそ、余計なお世話よねえ、ごめんなさい」
「いいえ、おじさん、渉くんのお母さんのことは任せてください。私たちはふたりとも介護士の卵ですから」
「おお、そうだったな。それは頼もしい。よかったなあ佳子さん」
 
 その家を後にして、三人は夕暮れの中、家路を目指した。畑を吹く風は心地よく、土の道も心を温めてくれる。
「おいしいお漬物だったわね、お漬物があんなにおいしいなんて知らなかった」
「田舎の食べ物は何でもうまいよ。でも、漬物が気に入ったなんて、お前案外、田舎暮らしが向いているかもな」
 若いふたりの会話に佳子が加わった。
「最初のうちは物珍しさで楽しいかもしれないけど、何もない所で暮らすというのは、都会育ちには退屈なものなんじゃないかしら。特に早紀子さんみたいに若い人にはね」
「そうですねえ、もう少しで食べ物につられるところでした」
「良いとこどりで、遊び来た時にいっぱい食べていったら?」
「そうさせてもらいま〜す」
 それから三人はただ黙って歩いた。それは、気まずさからではなく、何も言わなくても心は通じている、そんな雰囲気が漂った沈黙だった。
 早紀子にとって家族はあの東京の家の両親や兄弟のはずだが、今は不思議とここが自分の居場所のように感じられる。一人前になり、巣立つ時が来たということだろうか。両親に感謝しつつ、今自分は、飛び立つ未来に向けて翼を羽ばたかせているのかもしれない。
 このまま、三人でずっと歩いていきたい、この三人で新しい家族を築いていきたい……。
 夕陽の中、早紀子はそう強く感じるのだった。

作品名:暦 ―こよみ― 作家名:鏡湖