暦 ―こよみ―
長月(二)長野行き
「ねえ、渉、長野のお母さんに報告に行くんでしょ? 私も一緒に行っていいかな?」
いつものように母屋で伯母の節子夫婦と四人で夕食を取り、後片付けも終え、離れの前で別れる時、早紀子が言った。
「別にかまわないよ、母さんも早紀に世話になっているから、一度礼が言いたいとか言ってたし」
「そう、じゃ、決まりね。仕事が始まる前だから来週あたりよね?」
「ああ、ちょうど敬老の日だな」
「あら、それってお母さん傷つくわよ、まだ五十代でしょ?」
「そうだな、これ内緒な」
早紀子はその夜、寝る前に由紀子の部屋をノックした。
「お姉さん、ちょっといい?」
「いいわよ」
ウェディングドレスのカタログをテーブルの上に開いたまま、早紀子を迎え入れた。
「あら、熱心なことね。当然か、一生に一度の晴れ姿ですものね」
「そんなこと言いに来たんじゃないでしょ?」
「まあね。来週、彼と実家のお母さんのところへ行くことになったんだ、就職の報告に」
「そうだったわね、もうすぐ、施設での本格的なお仕事が始まるんだったわね」
「ええ、もちろん電話では伝えてあるらしいけど、介護福祉士を目指すことなどやっぱりちゃんと会って説明しなくちゃね。仕事が始まったら、しばらく行けなくなるだろうし」
「お父さんとお母さんには話したの?」
「それがまだなんだ。もう子どもじゃないからダメだなんて言わないと思うけど、もしかの時はお姉さんから一言お願いします」
「子どもじゃないって、立派な未成年じゃないの」
「あら、十八歳から選挙権がもらえる時代よ。十九歳はもう大人ってことでしょ」
「それなら、私の助けなんか必要ないわね」
「お姉さんのいじわる!」
「わかったわ。私がいる時に話しなさい」
「サンキュー。じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
「ああ、そうだ、ドレス、決まったら見せてね。お姉さんが選びそうなのはだいたいわかるけど」
「ええ、いいわよ、でも厳しい意見は勘弁してね」
次の夜、真中家では早速一悶着あった。早紀子の心配通り、父親の和孝の持論が展開される事態になったのだ。
「早紀子、相手の実家に行くってことはどういうことだかわかっているのか? まあ、近くなら遊びにきたで通るだろうが、田舎までわざわざ出かけていくというのはな……」
延々と続く和孝の話を、早紀子は涼しい顔で聞き流していた。由紀子も、父の気がすむまで話を聞く体制だった。耐えきれず、母の保子が先に口を出した。
「まあまあ、お父さん、今は私たちの頃とは何もかもが違うんですよ。もうそれくらいにしておいたら。どうせ、早紀子なんて聞いてやしないんですから」
ここで由紀子が口を開いた。
「そうよ、お父さん。早紀子が可愛くて心配なのはわかるけど、この子、案外しっかりしているわよ。あまり文句を言って早紀子に煙たがられたら、お父さんが損するだけよ」
妻と娘の二人にかかっては、なす術がない。と言って、仮に息子の浩一がこの場にいたとしてもたいした役には立つとも思えないが。とにかく、もう早紀子の長野行きは決まったということだ。
「それで、いつだって?」
「だから最初に言ったでしょ、来週の日曜日」
「ああ、敬老の日の連休か。母さん、何か適当な手土産を用意しておいてやってくれ」
「そんなのいらないって」
「そうはいかないさ。そういうことに気がまわらないから心配なんだ。親の顔が見たい、なんて言われないようにしてくれよ」
昨日に続いて、寝る前に早紀子が由紀子の部屋にやって来た。
「お姉さん、ありがとう」
「よかったわね。でも、お父さん、本当に早紀ちゃんのことが可愛くて心配なのよ、わかってあげなさい」
「わかってるわ。でも、ああネチネチ説教されるとついね」
「まあ、わかる気もするけど、早紀ちゃんだって全く聞いていなかったでしょ? どっちもどっちってところね。いいコンビだわ」
「そうかしら。ところでお姉さん、どれにしたの? ドレス」
「ええ、たぶんこれになると思うわ」
「どれどれ……」
カタログと、店で試着した時の写真を広げて、ふたりはいろいろ言い合った。こうして女ふたりの会話は、夜遅くまで続くのだった。