暦 ―こよみ―
長月(一)ウェディングドレス
九月に入っても、まだまだ真夏日、熱帯夜は続いていた。長かった夏休みも終わり、再開した学校生活に慣れるまで子どもたちも大変だろう。朝の通勤電車も学生が増え、また一段と混み合ってきた。
由紀子が週の初めの仕事を終えて帰宅し、父と母と三人で夕食を食べようとした時だった。突然、兄の浩一がやって来た。
「あら、いらっしゃい。ご飯食べてく?」
母の保子が、いそいそと立ち上がり支度をしようとした。幾つになっても息子の訪問は嬉しいのだろう。
「そうだな、じゃ、もらおうかな。あれ? 早紀子は?」
「仕事が始まるまでは、横浜の伯母さんの家の手伝いに通うそうよ」
「ああ、例の彼氏の所か。毎晩?」
「ええ、そう、介護福祉士の勉強も一緒にやっているみたい」
「いっそのこと、そっちに住んでしまえばいいのに。夜遅くに帰ってくるのも大変だろ?」
「いい加減なことを言うな! 嫁入り前の娘だぞ」
和孝が不機嫌そうに言った。
「おやじ、今時そんなセリフ聞いたことないよ。でも、おやじにとってはあの早紀子でもかわいい娘ってことか。由紀子ならわかるけどな」
「お前、今日はいったい何しに来たんだ?」
浩一の前に膳の用意をしながら、保子が和孝を睨みつけて言った。
「あら、別に用なんかなくても来たっていいでしょ! ここは浩一の家なんですから」
「あらあら、父は娘、母は息子がかわいいものなのね、幾つになっても」
由紀子が両親を交互に見ながら、可笑しそうに言った。そんな由紀子に、
「何、他人事みたいに言ってるんだよ、おまえだって娘じゃないか。ところで由紀子、直樹君との式はどうなっているんだ?」
浩一が尋ねた。
「あら、言っていなかったかしら? 来年の一月十二日に決まったのよ。お兄さん、空けておいてね」
「その頃なら、生まれた子もひと月くらいたっているから、多恵も出られるな」
「予定日は十二月半ばだったわね。もう少し早かったら、赤ちゃんにも来てもらえたのにね」
「ああ、あと三年後だったら、ほのかがリングガールだって務められたのにな」
「やだ、三年も待ったら私、三十路になってしまうわ」
「年齢より、直樹君と早く暮らしたいからだろう?」
「どっちもかな。ところで赤ちゃんだけど、今度は男の子がほしいんでしょ? お兄さん」
「そうだな、男が良かったな。女三人そろったらかしましいって言うし、ますます俺の居場所がなくなるよ」
「男が良かったって、じゃ、女の子なのね?」
「いけねえ、多恵にはみんなには言わないでくれって言われてたんだ。聞かなかったことにしておいてくれよな」
「お兄さんたら、おしゃべりね」
今日は由紀子が休みを取って、ふたりで式の衣装を選ぶことになっていた。まだ強い陽射しが照りつける中、ふたりは式場と提携しているブライダルショップに向かっていた。
「由紀子さんのウェディングドレス姿、綺麗だろうなあ」
「直樹さんたら……」
店に入ると、そこは女性にとっての夢の城だった。華やかなドレスをまとったマネキンたちがあちらこちらで微笑みをたたえている。そして、壁にはたくさんのドレスがところ狭しとかけられていた。それらを見渡す由紀子の瞳は、きらきらと輝いている。男の直樹から見れば、どれも大差ないように見えるのだが、由紀子にとってはどうもそうではないらしい。目移りがして、この中から一つを選ぶのは難題のようだった。
店員と相談している由紀子と離れ、直樹は隅のソファーに座ってゆっくりと待つことにした。男としては何とも退屈な時間だったが、由紀子の喜ぶ顔を見られると思えば苦痛というほどではない。そして、待つこと三十分。ファッションショーが始まった。
次から次へと、ウェディングドレス姿の由紀子が登場した。初めて目にするその華麗な姿に最初はすごく感激したが、三着目あたりからは違いがわからなかった。そして、五着の試着を終えた由紀子は、恥ずかしそうに聞いた。
「直樹さんはどれがよかった?」
「最初のかな。すごく綺麗で感動したよ」
「もしかして、初めて見たからじゃない?」
「そうだね、そうかもしれないね」
「ひどい……」
「由紀子さん、僕は本当にあれが似合っていたと思うよ」
「そうね、実は私もあれが一番気に入っていたの」
(じゃ、どうして、時間をかけてあと四着も着たのだろう?)
そう思ったが、直樹は口にはしなかった。愛する人に少しでもより美しい姿を見てもらいたいという女心まではわからなかったが、由紀子の幸せそうな様子を見ているのが、直樹にとっては楽しかった。ところが……
「じゃ、次はお色直しのドレスね」
「え?!」
(まだ着るの?)
驚きを笑顔で隠し、立ち上がろうとしたソファーに、再び直樹は座り直した。
(あと、小一時間てところか……)
ようやく店を出る頃には夕方になっていた。食事をし、家まで送ってもらった別れ際、由紀子が立ち止まって直樹を見上げた。
「直樹さん、今日はありがとう。男の人にとっては退屈だったでしょ?
でも最後まで快く付き合ってくれて、本当にうれしかった」
そう言うと、由紀子は背伸びをして直樹の頬に軽くキスをした。そして恥ずかしそうに、家の中に入っていった。
この瞬間でこの日一日の直樹の忍耐は報われ、最高のデートに変わった。